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2007年12月の記事

2007年12月31日 (月)

王様シンドローム

人材育成とかのセミナー用語でポジティブフィードバックとか、ネガティブフィードバックという言葉がある。フィードバックとは、再入力のことで、いったん外部の出力されたものが、今度は外部から再入力されることだ。

風呂場で歌うエコーや、山びこなんかも、フィードバックという言い方もできる。

ワシは、広告をつくる時にこのフィードバックを意識して制作するのだが、気をつけるべきことはその情報がネガティブであれ、ポジティブであれ、どのように変化するのかを考慮しなければならない点だ。

広告の場合、発信した情報が多くの場合、口コミという「人」をメディアにし伝播してゆくから、予測しきれないのである。

毒にも薬にもならないような広告だと、これをそんなに考慮しなくても大丈夫だ。誰も気になんか止めないからだ。安売りチラシなんかもそうである。

メッセージ性の強いもの、店のイメージを出しているもの、イベントや音楽モノなんかは、気をくばっていないと、ヘタするとポジティブフィードバックがかかって、爆発炎上、つまり店が潰れたりイベント自体が開催できないなどの事態を招いてしまう。

ワシが作る広告は、すべてにおいてそうだが、絶対に褒めない。ただ事実を伝え、提案をしていくのみだ。それはこのフィードバッグによる爆発炎上を極力抑えるためである。

中には、このフィードバックのことを考慮せずに広告をつくり、気持ち悪いほど褒め殺しな広告をみかけたり、制作者が全面にでちゃって、このチラシはあーたのキャンバスかいっていうのがあったりする。

幸いなことに、インパクトもなく反響もないだろうから、爆発炎上にはいたっていないのと、マーケット自体が小さいから大事にいたっていないケースがほとんどだ。

…というか、このフィールドバックを理解している業者やデザイン屋はほとんどいないのが加古川の現状だったりする。

もともと、広告はリレーションである。情報は一方通行ではない。最近多い老舗企業の不祥事も、このリレーションを取り違えた、もしくはまったく考えていなかったから起きたといえる。

また、ワシがよく言う「裸の王様」も、このリレーションがないからそーなってしまう一種ココロの「病」だ。

少し前に「オレ様的消費主体」について書いたが、金を払うほうが王様であると思ってるご婦人や、仕事を発注したほうが王様だと思っているご婦人や、他人に心配をかけてばかりいる王様や、負ける人は努力がたりないと平然といってのけてブログが炎上しちゃった王様や、犬をしかりつけ、びびって大小便を垂れ流したことをお笑いネタにして笑う奴などなど、多くの王様はリレーションのフィードバックを予想していなかったり、そういうものの存在を気にもしていない。

基本的に、人は自分で自分の姿を確認できない。だから人の目を必要なのである。
基本的に、人はひとりでは生存できない。だから助け合うために社会をつくった。
個人と他人は区別できるものではなく、個人の延長線上に他人や社会があるのだ。

「天につばをかけると自分にかえる」とはこういうフィードバックのことを指す。

これは、「空気を読む」と同じく成長過程で習得していくいたって感覚的なものなのだが、おそらくこれを習得しているとか、していないとかの問題ではなく、習得したことができなくなっているのだろう。これは過食から引き出される病と同質のものではないかと思っている。自覚のある病は、未来を紡ぐが自覚のない病は未来を蝕む。

ワシは、これを「王様症候群」と名付けて、広く世間様に警告しようと思うのだった。

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ふるさとの匂い

なんだか知らんが、どーも精神状態がよくない。なんか知らんが元気がないどころか、妙にビクビクしてる自分がいることを感じていて、その原因がはっきりしない。

こゆときはオレ様キャラで書く文体は、かなりしんどいのだが、今やすっかり慣れてしまってこのキャラでねーと文書がなんか論文みたいになってしまうんだな。

ワシの辞書には頑張るとか、苦労するという言葉がないので、こゆときは犬の散歩したり、ダラダラする。人とは逢わないし、喋らない。今日は日曜ということもあって、昼間のんびり河原の中州の背丈ほどのすすきの海の中にながい時間埋没していた。

川の中州には独特の匂いがある。これはどこの川の中州も同じで、たぶん上流から流れてきた堆積物の匂いなんだろう。ドブの匂いと草の匂いと、何か骨の匂いみたいなのをミックスしたような匂いだ。けっしていい匂いではないのだが、この匂いに包まれているとワシは安らぐ。

ガキの頃、ホテルの野良犬たちと一緒に寝てた。

子どもの頃見たアニメで「狼少年ケン」っていうのがあって、音楽がとてもすばらしいアニメなんだが、狼の群れの中で育った少年ケンが主人公のアニメ。ケンは狼に育てられ、狼と一緒に暮らしていてジャングルか森か忘れたけど、それを守ってニンゲンと戦うのだ。

ワシは、いつもこのアニメの主人公と自分をだぶらせていた。犬に育てられたわけではないが、犬はいつもワシのそばにいた。ワシと犬は主人とペットという関係ではなくて、犬がいるところにワシが割り込んではいってきたので、どちらかというと群れに入れてもらえたといった感じ。

最初、犬と出逢ったとき、いきなり周りを囲まれてワシは桜の木の下に追いつめられた。なんだこいつは?って感じだったんだが、ワシは蚤やダニ、犬の毛にからまったヒッツキ虫をうまくとることができたので、やがて群れに迎え入れられた。

犬は、広大な河原を縄張りにし、廃屋ホテルのいたるところで暮らしていた。ホテルの管理人であるおばちゃんは、自分も犬を2匹ほど飼っていたので、野良犬が住みついていることを黙認していたし、自分の犬2匹の食事というにはあまりにも多い量のえさを大きな鍋で炊き、タライにぶちまけ他に犬にも与えていた。

管理人のおばちゃんにすれば、犬がウロウロしていたほうが治安的に安心だったんだろう。なにしろ、鍵などかけようのない大きな廃屋のホテルだ。誰かが潜んでどこかの部屋で寝ていても解らない。実際、刑務所から出所したばかりの男が1週間ほど潜んでいたという事件があったこともある。あのとき、なぜ犬はその男を受け入れていたのかはいまだに謎だ。

ワシのねぐらは大広間。部屋数は無数にあるので、べつにどこで寝てもよかったのだが、1階の暖炉のある洋間はなにか不気味な感じがしたし、個人客用の小さな部屋もたくさんあったのだが、その部屋にいくまでの長い廊下のつきあたりにある女性の肖像画が怖かったので、いちばん怖くない部屋ということで大広間で寝起きしていた。

しかし、大広間はやたら広く、冬は凍えるほど寒かった。石油ストーブがあったのだが、隙間風もあったし、いくらストーブの火を強くしてもあたたかくはならなかった。昔の冬は今よりも寒く、文字どおり歯の根があわなくてガチガチいってた。

そんな時、ワシは犬のたむろしている部屋にいく。犬はホテルのどこかしまい込んでいる布団をひっぱりだしてきて分解し、自分たちのベッドのようなものを作ってまとまって寝ていた。ときどき、河原から拾ってきたであろう牛の骨が埋もれていたりするが、なぜか蚤が大量発生してることもなく、比較的快適な空間だったのだ。

犬の体温でワシは寝た。犬の吐息を感じながらワシは安らいで寝たのだ。

長いことワシはあちこちと放浪し、追い出され、そしてこの廃屋のホテルにたどり着いた。その頃にはワシはすっかりニンゲン社会が嫌いになり、信用なんかできなくなっていた。ワシは早く大人になることだけを待ち続けていた。自分の意志でなにをしてもいい年齢になるのを待っていたのだ。

そんな時に、この犬たちは群れの一員としてワシを迎え入れてくれた。だから、よけいに犬の体温が暖かかったのだと思う。だからワシはぐっすりと眠ることができたのだ。

この頃、常に嗅いでいた空気。それがこの中州の独特の土の匂いだ。たぶん臭い匂いだろう。だが、ワシにはこの匂いは、まさしくふるさとの匂いそのものなのだ。

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俺様的消費主体

「最初にいっておくが、俺はかな~り強い」。これは仮面ライダー電王でのゼロノスのおきまりのセリフ。電王のほうは「俺!参上!」。
仮面ライダーが、いつから俺様的になったのかは解らないが、やはり俺様ヒーローとしてはカブトが最強だろう。

昔は俺様的な役割はたいてい悪者のほうと決まっていたのだが、最近では俺様的主人公があたりまえになってきている。

漫画のほうではずいぶん昔から俺様的な主人公が主流になっていて、バスタードのダークシュナイダーなんかがその典型だろう。

ここんとこ、バタバタしてたので今日はひさしぶりに本屋にいったら、「オレ様化する子どもたち」というタイトルの親書を見かけた。たぶん「オニババ化する女たち」のタイトルを意識したもので、まぁ、最近流行のタイトルの付け方でどーも、この手のタイトルは気にいらねえのだが、パラパラと中身をみてみたら、ほお、面白そうなのである。

あいにく、500円しかもってなかった。金もってたら本を買ってしまうけど、どーせ読まないんで金を置いてきたのだ。
で、そんな時にかぎって面白そうな本に巡り会う。

この本によると、最近のガキの不可解な行動は、商取引における等価交換をガッコの現場に持ち込んでいるというのだ。そして、自分が行った行動…たとえばタバコを吸ったとか…とその処罰が等価交換ではないと怒るというのだ。

ほほお、これは面白い見解だ。この「商取引における等価交換」を求める消費主体としての全能的「オレ様」の立ち上げというのがオレ様化する子どもたちというワケなのだ。

ずっと前にテレビの討論会で、ガキが大人たちに「なぜ、人を殺してはいけないんですか」って質問してやがったが、これなんかも、どーせ答えられないだろうという子どもからの宣戦布告だし、商取引における等価交換を求める消費主体として考えると、ほほお、なるほど、つまりガキは等価交換しろよと言ってるわけだ。

なんだっけ、少し前に自殺予告が文科省だっけ?に送られてきた事件あったよな。詳しくは忘れたがワシはあの時、ブログかミクシイかで、これは「自分の命を人質にした脅迫じゃん」って書いたけど、ここにも消費主体としての等価交換というキーワードが見えるような気がする。

ふふん、でもこの傾向は子どもだけではない。特に、社会とあまり接していないオバハンにも見える傾向で、ここんとこそういう事を立て続けにあった。金の流れがエライ順番だと思ってる人も多くて、そもそも等価交換ではないんだけど、本人にしたら仕事を出したということで等価交換がなりたっているのだろう。

センセは、勉強を教える。それはオレたち生徒がいるからだ。だからオレ達はあーたがたセンセの客なんだよ。お客サマは神様ですって、誰かがいってたじゃん。だからオレ達は神様なんだよ。…という理屈だ。

だから、タバコを吸っていて怒られたら、「そんなカッカして怒るなよ。給料分だけやってりゃいんだよ」となるし、試験でいい点がとれないと、「ちゃんと教えろや」となる。

ワシがよく言う「裸の王様」。この「裸の王様」な人は商取引においても王様的なとこが多いと、前から思っていたのだが、きっと消費主体としても裸の王様なのだ。ワシは広告屋であるが、基本的に「表現者」が本来のジョブ特性だ。それは「サガ」でもあるし「業」でもある。だから、多くの業者がするように金を貰って舌をだしながら、王様の服を褒めちぎるということができない。ここに、王様とワシの溝があるのだろう。

王様はワシに仕事を出すのがステータスではあるが、ワシのそのジョブ特性が気に入らないのだろう。

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太陽に吠えろ!

他人がいったなにげない言葉が、長い間…おそらく一生忘れられないことってよくある。

なんかこんなふうに書くと、すげー「なにげない言葉」のような感じだが、いや、ほんとうになにげない、たいして意味もない言葉が、たまたま自分の心にパコッと当てはまり、ジグソーパズルの重要なピースのように頭からはずすことができなくなるのだ。

そんな言葉の一つに会社の社長…彼はワシよか1つか2つ上、まぁ同年代だがYAMAHAのTDR250を所有していて、しかもチューンアップ屋に修理を依頼したらその店の奴が喜んでしまって頼んでもいない馬力アップなんかされて帰ってきたモンスターTDRを持っているのだが、まぁ、それは話とか関係ない…。

その社長が、「ガッコを出てどこかに就職するか、商売をはじめるかの選択肢で僕は地元に帰って商売を始めた」と言ってたことがある。もう、十年以上前の話だ。そのセリフがなぜか今も頭にこびりついている。

「商売を始める」ということと、「就職する」ということが同じ次元の選択肢だったことに当時のワシは「あ、そうなんだ」と思ってビックリしたので、そのインパクトが強かったんだろう。

ワシの場合は、商売を始めるなんていう心構えもなかったし、仕事だという気もなかった。なんとなく、やり始めたことを持続させていただけのことで、いつのまにかそれで飯をくってて、気がついたら何十年という時間が流れていた。そんな感じだ。

むしろ、商売を始めたというよりは「就職しなかった」といったほうがいいかもしれない。今でも自分は基本的にプータローだと、どこかで思っているし、それゆえに誰かをやとって育てあげるなんてことを考えたこともない。

ワシは回りの同業者を見て、自分はプロであるし、その自覚と責任と自信をもってはいるが、あくまでそれは回りとの相対としての認識できしかない。

この社長、昔はイベントとかの企画や運営をするサークルをやっていた。あまり記憶にはないのだが、その時どこかで知り合い、今でもたまーに仕事をやりとりしているのだが、ワシが発行していたFREAKSを知る数少ない人でもあり、読者でもあった。カルチャーの指向はワシと同じくサブカルチャーで、この田舎においてサブカルチャーを語ることができる人でもある。

ワシらの年代は、学生運動に乗り遅れた世代である。なーんにもやる気がしない世代なんてことを言う人もいるが、そうではなくふつふつとした思いは、体制への反抗とか、デモとかではなく、「自分でするから別にいいよ」とインディーズへと流れていく世代だ。

筋肉少女隊の大槻くんや、デーモン小暮閣下や、この世代で、彼らもなんか頑張ってミュージシャンになりましたーって訳ではなくて、なんとなくこれで飯くって、まぁ、相対的にプロかなって感じだ。

そんな感覚の中、ちゃんとビジネス感覚をもって「自分で会社しちゃうもん」という連中もたしかにいた。元祖インディーズレーベルのナゴムレコードの社長であり、自らもミュージシャンのケラとかがそう。彼らは、既存のシステムを再構築することで世間様に宣戦布告をしようとしたわけだ。

言うまでないが、この社長は世間様に宣戦布告なんていう大げさなことは考えていないにしろ、あきらかに後者のほうでワシは前者のほうだ。当時、このセリフを聞いたワシは、「なるほど、会社つくるのもありだな」なんて思って、商法の本を読んだり会社のつくり方なんかを調べたりしたのだった。

しぇて・・時は流れ何十年。その頃、ガキができていたらもー成人式は迎えて一人前という信じられないほどの時間が流れた。サブカルチャーの洗礼を受け、世間様をはすかいに見た全共闘に乗り遅れた若者たちはオサーンになり、はて何をどう変えてきたのか?

実は彼らの多くは夢やぶれ、世間にまみれ、その屈辱やみっともなさを下の世代に見せつけてしまった。下の世代は、そんなワシらの姿を見て、もっと「得」をするやり方を模索し、その結果産まれたのがホリエモン世代の連中だ。世間様を再構築しようとしたワシら世代のやり方ではなく、世間様の裏をかき、バクを突くやり方で金や権力をせしめたのだ。

宝島という雑誌がある。昔からあって創刊がいつか知らんが、この雑誌は時代に反映して内容がどんどん変わっていくという雑誌で、ワシらが若い頃はサブカルチャー系の雑誌だった。当時ワシが作っていたミニコミもこの雑誌に紹介されたことがある。そのあと、宝島はエロ雑誌になり、株とかの内容の雑誌になり、今はビジネス起業系の雑誌になっている。今の宝島を読んでる読者は、当時のインディーズ系の内容を見てどう思うだろう?まさに時代を反映しているわけで、面白い。

ワシはビジネスで成功ことも大事だが、捨てちゃならねぇプライドつーもんがあるだろうが!なんて思う古い世代かもしれないし、そのためにイマイチ金や仕事でパッとしない。

んが、思えば、ワシは安定した生活よりも、時間が自由になる生活を選択したというそれだけのことだ。自分の責任において自由になる時間があるという生活でなんとか飯を食えているのなら、それはそれですばらしいことじゃねーか。

犬がゴロゴロする民家の事務所で、うまいコーヒーを飲みながらジャズを聴き、うだうだとパソコンに向かいながら、時には庭でタバコを吸い、時には河原で思索にふけり、隣の廃業した風呂屋の煙突ごしに空に浮かんでいる月を見ながら感情の起伏に身をゆだねる。それはそれですばらしいじゃねーか。

ワシはワシの選択において、今の生活を選んだ。それでいいのだ。
そんなことを思いながら、多めの犬の散歩にでかけた。

橋に夕日が綺麗だった。
ワシは犬に話かける。

「ふふん、夕日が綺麗に見えるのは、その日一日に犯した罪すべて許してくれると思うからだ。朝日が綺麗にみえるのは、昨日とは違う1日が始まるという期待があるからだよん。」

犬は、そんなことより冷凍庫のブリはいつ喰えるんだと言った。

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衝撃の告白!おぼっちゃまキラー西鶴は、実はおぼっちゃまだった!

事務所の中を案内するのが最近のワシの趣味なのだが、その会長はあまり興味はなさそうだった。まあじいさんなんで、こんな民家なんてのは当たり前で普通なんだろう。それよりも、どこで寝てるんだとか、そんなことに興味があるようだった。

いろいろひつこいんで、ワシも多少キレ気味になる。

「あのなぁ、コーアンじゃねーんだから…」

ガキの頃、お化け屋敷のようなホテルに住んでいた。ホテルは廃業しているが、そのとなりの打ちっ放しのゴルフ場は営業していて、そのホテルの管理人におばちゃんは打ちっ放しの利益で飯をくっていた。日曜なんかは、大繁盛でワシもお手伝いをしたものだ。

そのホテルのおばちゃんは「お手伝いさん」を雇っていて、ゴルフ場の球拾いや洗濯や食事などを泊まり込みでしていた。お手伝いさんは何人かがいて、数ヶ月単位で交代しているみたいだった。ワシの世話をよくやいてくれたのが丸尾のおばちゃんという人で、まるまるした田舎のおばちゃんといった感じの人だ。

ワシがそのホテルに住むようになって、小学校を転校し、始めての登校日に雨がふった。丸尾のおばちゃんは、傘をもって学校まで迎えにきてくれた。

同級生が「お母さん?」と訪ねるから「ママはどこにいるか知らんが、あれはホテルのお手伝いさんの丸尾さんだ」と正直に答えた。この答えは、同級生にはインパクトが強かったらしく、しばらくはワシの家は、大金持ちでホテルを経営していてお手伝いさんがいるという噂で持ちきりだった。

ワシの母親は年が若いこともあって、自分のことをママと呼ばせたがった。ワシの父親はパパというのが気持ち悪いらしくお父さんと呼ばれるのを好んだ。だからワシは、ママ、お父さんで育った。このママという言い方もおぼっちゃま的だったんだろう。

また、ワシの父親は自分がオシャレだったこともあり、ワシにもオシャレをさせたがった。このヘンはワシのママもそうで、ワシは着せ替え人形にようにまるで当時出始めたばかりの子ども服のブランドのCMタレントのような服装をさせられていた。今でも夏でも靴下をきっちりはくというワシのセンスはこの頃に強化されたものだ。

転校した学校は、今までと違い田舎の学校だったので、ほとんどの生徒は学校指定の体操服に制服のジャケットをきて通学していた。別に今みたいに制服を決めておかないと貧富の差がでるなんていう大人の都合の変な平等意識なんかない時代なので、たんに手軽だからという理由で、皆体操ズボンと制服のジャケットというカッコだった。

ワシは、そんなのもってないんで、いつも来ているフードがついたチェック柄のコートを着ていたのだが、またそのカッコが金持ちに見えたのである。

金持ちのおぼっちゃんが転校してきた。そんな噂は、やがてカラカイになり、段々と学校生活がやりにくくなってきた。その頃、ワシは転校につぐ転校で何をどうすればいいのかは十分心得ていた。金持ちのおぼっちゃん=喧嘩が弱い=からかっても大丈夫というイメージが定着しつつあった。これは早いウチに手を打つ必要がある。

ある日、ワシはからかった一人をターゲットにし、ボコボコにしちゃったのである。いざ戦闘になったら徹底的にやる。中途半端なら徒党を組んで仕返しをくらい、プチ抗争に発展するから、相手にこれでもかというほどの恐怖を味あわせる必要がある。これも転校につぐ転校の中で、自ら見いだした方法論だった。

たしか相手は、腕の骨を折る大けがをし、その日からワシのカラカイもやみ、噂もどこかへ消えていったのだが、その話を学校経由で聞かされた丸尾のおばちゃんは、へんに恐縮してしまい、傘をもってきてくれることもなくなってしまった。

思えば、この頃からワシはあれこれと生活について詮索されるのを非常に嫌う傾向にある。話せば長くなるし、ややこしいし、基本的にそんな話のどこが面白いか?と思うからだった。今でもワシが自分の生い立ちを話すのは、イテコマシタロカイって思っているおねちゃんか、この文章ぐらいだ。おそらくこういったプライベートな、いわゆる素性的なことを聴きたがるというのは、昔ながらの「家」対「家」のおつきあいのなごりだろう。田舎にいけばいくほど、また年齢が上になればなるほどそういったことに興味を持つのはそのためだ。

中学校の頃、同和教育という授業があって、そのセンセが熱心な部落解放同盟の人だった。ワシは自分がそんな感じで素性的な話や家的な話は嫌いだったし、自分でも相手のプライベートはことに興味を持ったこともなく、ヘタすると名前さえどうでもいいようなところがあったので、そのセンセに単純な疑問をぶつけたことがある。

「センセ!ワシはそういったことに関心もたないけど、それを授業でやることで風化すべきことが逆に風化せずに生き残るってこともあるんじゃねーの?」

その時のセンセの反応はいまだに忘れない。顔を真っ赤にし、鬼のように怒ったのだ。あなたのような考えが差別を産むのだというようなことを言って、すげー怒った。ワシは、この怒りの一見から部落問題を「自分とは関係ない話だ」と思うようにし、口をはさまなくなった。

このセンセの怒りは、タブーというものを作り出す最大の原因になっているとワシは今でも思っているが、実際にはこの「家」という概念は今の日本にも十分ある話なのだろうな。

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音の力~波は空間を形成し、そして世界を構築する~

アニメ映の主題歌を聴いたのが最初。で、気にいってワシとしては珍しくCDを買った。ネットで落とすんではなく物理的に購入したのね。ま、物理的なCDだと、一生モンだと思ったわけ。

で、そのCDをメモリステックに入れてクリエからスピーカ出力して聞いてるんだが、昨日はふと外で聴きたくなった。ワシは、ウォークマン的なものがあまり好きではない。外では耳からの情報は重要だろと思うからだ。せっかく外にいるのに内と同じことしたくないってーのが理由なんだが、いつもいく河川敷のね、夕日がきれいなのだ。

外でしか味わえない音楽の楽しみもたしかにある。で、クリエは音楽も高音質で聴けるんで外に持ち出した。

川の中州にわけいる。ススキが背丈まで伸びてたり、今は植物の種が「ヒッツキムシ」状態なんですげー状態になるんだが、毎日犬との散歩コースなんで、なーんとなくケモノ道ならぬ、西鶴道ができているからへっちゃらなのだ。

犬は夕日の綺麗さなんか関係なく、いつものようにそのへんをクンクンして、ヌートリアや鳥の痕跡を追っている。ワシは、もってきた葉巻に火をつけ音楽を聴く。

で、いつも聴いてる曲なのだが、外で聴くと意外なことに気がつく。

アニメの主題歌もそうなんだが、このボーカルの人とても歌い方が丁寧だ。ジャズシンガーなんだが、オペラ歌手みたいに丁寧に綺麗に歌い上げる。一時はポップス演歌を歌っていた時期もあるらしいが、れっきとしたジャズシンガーでスィングジャーナル誌では女性ボーカル部門上位の常連なのだ。

その丁寧に歌い上げるボーカルが、曲に神々しさを与えるのがワシはとても気にいっていた。

ところが、外で聴いていて、ボーカルが微妙に和音を形成しているのに気がついた。これはなんなのだろう?たぶん、口から発せられる音、その裏に鼻の空洞を利用して共鳴させるようにできた音が微妙にかぶさっている。

そして、その裏の音は、口から発せられるオペラのような神々しいボーカルとは正反対に、ドロドロした呻くような声なのだ。ファンキーというにはあまりにも苦しそうであり、下町的というほどあっけらかんとしたものでもない。辛く、悲しく、絞り出すような声。

ああ、なるほど。ワシがこのボーカルを気にいっているのはここだと改めて認識した。

この神々しい声は、地獄の業火に焼かれ、極寒の寒さに震え、そしてたどりつく涅槃のような厚みを持つ。

それはワシがかつて居たアンダーグランドな世界だ。シャブ中や犯罪者、金の亡者や借金地獄、人を人とも思わない連中、そんな中であっても、そこにはたしかに綺麗なモノが存在する。むしろ、そんなドロドロした中だからこそ、誰もが綺麗なものに憧れ、そしてそれを忘れまいとする。自分の中で最終防衛ラインとしてプライドを創り上げ、そのプライドの中に綺麗なココロを待避させる。涙の意味は濃く、本当に人のために泣ける、そんな世界をこのボーカルは表しているのだろうと気がついた。

ドロドロした呻くような声があり、そしてその相対として神々しい声が引き立つ。このボーカルは生きることの厚みをみごとに声だけで表現することに、信じられないことだが見事に成功しているのだ。

アルバムには、多くのジャズのスタンダードナンバーも並んでいるが、どの曲もスタンダードなナンバーでありながらもこの人でないとダメな曲になっている。どいつもこいつも個性なんてことをいいやがる時代だが、個性というものは「人と違うことではなく、その厚み…、真実を個人というフィルターを通して編集された解釈」なんだということに改めて気がつかされる。

伊藤君子。ワシとしてはめずらしく、ライブに足を運びたい人なのだった。

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ワシには独自の「理」がいくつかあって、「体の悪い部位を食べると治る」というのもその一つだ。

ここんとこ目が見えにくく、ついに「老眼」あかぁあ!というのと同時にパソコン作業で目を酷使、仕事の合間に一息つくかと、ミクシイ書いてたりするもんだから、これで目が疲れないはずはない。

こんな時は「目」を喰らう。近所のスーパーに「目」を探しにいったら、タイのあらが1パック100円!しかもタイの頭ばっかのあらで、一匹二匹、今何時?え、5時…六匹、七匹…あ、1匹の頭を垂直に割ってるから2個で一匹だな…。

ま、とにかくたくさんの目だ。

で、大根がこれまた1本80円!しかもハッパ付。早速買って、タイの目玉のあら炊き大根入りを作った。昼からコトコト長時間かけたので、骨までやーらかい。もー、コラーゲンてんこもりでトロトロ。すげー、うまかった。

もちろん犬にもおすそわけで、でかい鍋はまたたくまに空になる。

つーか、ワシの場合犬の飯の余りを食べてるって感じだな。

んで、近所の神社に夫婦銀杏なんてのがあって、雌雄の銀杏がくんづほぐれずしているエロい銀杏なのだが、なんかしめ縄なんかが巻いてあって、昔はこの銀杏の下でお見合いが盛んに行われていたらしい。くんずほぐれずのエロさが縁起かつぎなのだろうが、実はこの銀杏、縁起がいいだけではなくて、昔は首つり自殺も多かった。

主に、男女間のもつれの自殺だそうで、たしかにしっかりした枝振りと、路地をはいった立地条件は自殺には適していそうだ。

ワシはこの縁起のいいのか悪いのかわからん銀杏の葉を採取しにいったの。

銀杏の葉、これを乾燥させてネットに詰めて、家中におけば、なんとゴキブリよけになるらしいのだ。自然のものなんでワンコにも優しい。しかもタダだ。大量にとってきたので、いろんなとこに置ける。
なんか余ったので、竹で編んだ籠に敷き詰めて、その中にヤクザ犬のオモチャのきたないウサギと犬のぬいぐるみを入れてみたら、けっこう季節感のあるオブジェにもなった。

そういや、フラボノイドは銀杏からとれるのだが、この葉をお茶にできないものだろうか?明日ためしてみよう。

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うーむ、ここ数日、どーも気分が乗らない。

なんか、「あほらし感」つーの?よく「アホくさ」って言うじゃん?あんな感じで仕事とか、ほっとの更新とかがでけない。

かといってチャットしてるわけでもなくて、テレビ見てるわけでもなくて、本よんでるわけでもなくて、掃除してるわけでもなくて、何をするのでもなく、タバコ吸って珈琲のんで犬の耳を引っ張ってるだけ。

さて、世の中、というより宇宙は、実はインターネットのホームページみたいな構造になっていたりする。ホームページもその実態はプログラム言語で、それがブラウザを介して画像や文字になって見えている。

ワシが仕事で扱うグラフィック関係もそう。実態はEPSっていうデータで、それがアプリケーションを介して画像に見えていたりする。

データ自体をのぞいてみたら…これはEPSのデータをテキストを開くメモ帳とかのアプリで開いたら見ることができる…チンプンカンプンだ。

つまりぃ、パソコンで処理できる記号を人間の五感で感じるものに変換してるわけ。

で、宇宙もこいったチンプンカンプンなものが実態で、人間は五感で世界を感じているというよりは構築してるんだな。

このチンプンカンプンな実態を「無色界」って言う。その無色界によってできあがってるのが「色界」、んでその色界を人間が五感で感じているのが「現象界」だ。

「界」っていうと、なんか別次元の世界のようだけど、これらは重なり合ってる。…というより一部が重なりあってるといったほうが正しい。

なぜならぁ、現象界よか色界のほうが広くて、色界よか無色界のほうが広いから。

色界は、音がその構成要素ってことらしいが、ワシ的に言うならこれは音ではなくて「波」。つまり振動だな。振動は、無色界のデータを乗せるという性質を持っている。

たとえるなら、ネットの信号に言葉が運ばれるみたいなもんだ。言葉自体は物質でも波でもなくて、カプセルだ。その言葉というカプセルの中には、理(ことわり)が詰まっている。

この理こそが、無色界を構成する要素なのね。

理は、なにも動かないし変化もしなかったのね。そこに「何か」が干渉しやがったもんだから理が変化し始め、波が生じた。時間っていうものなんかもまっさきに出来た波だよ。波は肉体を産み出し、その肉体によって感じる世界が現実というわけだ。

生きているということは肉体を持つという意味だ。つまり、制約があること、不自由があるということが生きてるということでもある。

どんなに金持ちで不自由のない奴でも、肉体を持つという不自由は抱えているわけだ。

ワシは思索する…なんで「何か」は理に干渉したんだろうか?「何か」はどこから来たんだろうか?もー、このあたりになると人間には解らないよね。このあたりは3つの世界が重なり合ってるその外の世界の話だから、想像すらできねー。

しゃて、宇宙のことを考えるのはこのへんで、犬を引っ張り込んで寝るとしよう。時々思うんだが、犬はこのへんの謎を知ってるような気がしてならない。なぜなら、生きてるだけで幸せそうな顔をしてるからね。

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にゃロメ!きゃわいいんおねちゃんなのだ!

某事務所に納品にいったら、その社長が嬉しそうに若いおねちゃんになにやら説明してた。おねちゃんは黒いスーツを着ていたのでたぶん面接だ。

ワシは急にジュウギョウーインが欲しくなった。仕事をしていたらあれこれと雑務がでてくる。そんなんをナントカできたらいいだろうなー。つか、毎日オサレな洋服でおはようございまーすなんて、事務所に来られた日にゃー、アータ。ワシのテンションは毎日クライマックスだぜ!

俺様的ワシが毎日クライマックスのテンションだとしたら、すげー仕事をこなすが世間には大いに迷惑だろう…しかし、「そんなの関係ねぇええ」。

でも、面接で「条件として毎日オサレして出勤してくるように。仕事はてきとーに掃除したり、犬がほじくったソファのカバーのメイキングや、気がむいたら飯でも炊いてて、あとはワシのテンションがクライマックスになるような流し目を」なんて言うと完全にセクハラだろうな。

前にも加古川の某センターでセクハラがあったらしいが、男女参画を唱う部署でセクハラなんて大ニュースなのだが、なぜか?そんなには大きな騒ぎにはならなかった。このあたりは加古川の記者クラブなんてもんを考える材料にはなるのだろうけど、それはされおき、これはセクハラではない。

セクハラとは、立場を利用して行うものなので男女参画の職員とボランティアは何の金銭的な利害関係にないのでセクハラではなくて、たんなる痴漢、強制猥褻だ。

んが、ジューギョーインを雇いいれる条件でオサレにしてきてっていうのは、うーむ。ソフトプレイではあるがセクハラの定義に完全に当てはまるのであーる。

「ほっと編集長は、ヘンタイ超だった!」そんなベタな見出しが新聞に踊るのは嫌なので、やはり一人でお仕事をするしかない。

つーか、最近皆、見た目だけはオシャレでキャワイクなったね…。

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2007年12月27日 (木)

寒い夜にゲートは開く

ぬおおお…めちゃ寒い。今日も性懲りもなく、夜に校正を届けにいったのだが、遠出はやめて速攻帰ってきた。こんな寒い日はお風呂ぉおと思って石油のボイラーに点火。お湯ためようとしたが、お湯がぬるい…シャワーには充分なのだが、浴槽にためるとぬるいのだ。はて、壊れたのか、それとも寒すぎるのか?

なんか風邪ひきそうだから、風呂はやめ…。

そういや、ガキんころワシの仕事はでかいボイラーに火を入れることだった。なにしろ観光ホテルの岩風呂にお湯を供給できるボイラーだから、でかいのだ。そのボイラー室には、石炭やら薪やら古新聞やら燃えるものがたくさん積まれていて薄暗かった。

そのボイラー室はワシのかっこうの遊び場だった。今でも石炭の匂いを嗅ぐと、その頃のことを思い出す。野良犬が子犬を産むのもたいていこのボイラー室の片隅だった。

ワシはボイラーに火を入れながら、高く積み上げられた新聞紙の中から漫画雑誌を引っ張り出し、それを読みふけっていた。「巨人の星」や「あしたのジョー」「タイガーマスク」「男おいどん」「仮面ライダー」。連載当時のものではなくて古雑誌なのだが、ちゃんと連続してそろっていたので、まるでタイムスリップしたかのように順番に読むことができた。

次の展開はどうなるんだろうとワクワクしながら、次の日も次の日も、古新聞の山の中から宝探しをするのである。

漫画だけではなく小説もあった。怪人21面相のシリーズや、にんじん、シャーロックホームズなどだ。

このボイラー室は、ガキのわしにとっては別の世界へのゲートのようなものだったのだ。

そんなシャーワセな空間は、長くはもたなかった。ボイラーが壊れ、風呂はプロパンガスに付け替えられた。それにともない、観光ホテルの土地の一部が売られたか貸したかで、ボイラー室は取り壊され、そこにどこかの工場の倉庫が建てられた。

結局、「明日のジョー」や「男おいどん」の最終回を見たのは、それから何年もたって昔を懐かしんで買った文庫本だった。

ワシは今のこの事務所がすげ気にいっていて、たしかに寒いし掃除は大変だ。が、たぶんこの観光ホテルをどこか彷彿させるところがあるからだと思う。

物見遊山で見にきただけなのが、速攻で契約したのも2階の広い畳敷きが観光ホテルのワシが寝てた30畳の大広間みたいだったからだ。

ワシには帰るふるさとなんかないが、ふるさとなんてものを無理矢理あげるならばこの観光ホテルだ。今はもう跡形もない荒れ地になっているが、時々その場所を訪れる。

その場所にバイクをとめ、タバコを吸っていると、今でもどこかにあのゲートが開き、ジョーやおいどんや、野良犬が石炭まみれになっているあの頃に帰ることができそうな気がしてならない。

風呂がぬるいので今日はもう早めに寝よう。湯たんぽを入れようと思ったのだが、でかいやかんが見つからない。珈琲を入れるポットでは何回も沸かさなくてはならないから湯たんぽもあきらめ。

今日は布団の中に犬を押し込んで、あたたかくして寝よう。

ふふん、そういや観光ホテルの大広間でも、ワシは犬の群れの中であたまって寝ていたのである。

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震える西鶴相対論

きょは仕事しねーなんていっておきながら、結局、日が変わる寸前まで仕事してんじゃん!ワシ…ウソつき?

夜のうちに、別府まで校正を持っていってポストにほうりこんでおくの。そしたら朝一番に校正原稿かえってくるから明日印刷屋にデータおくれるじゃん。朝の散歩ゆっくりできるじゃん。

で、夜中にバイクを走らせていて、ひさしぶりに寒かった。あんま寒いのがひさしぶりなんで、なんか昔を思い出して嬉しくなって、別府からも少し足をのばして、人口島の手前の自販機までタバコを買いにいくことにした。

そこの自販機は、なぜか外国の葉巻ばっか売っていている世にも珍しい自販機で、はたして売れているのかどうか疑問なのだが、そこで珍しい葉巻を買って帰って、じんわりふかしながら、熱いマンデリン入れて飲むぅ。

寒くて、ガタガタ震えたが、ぬぁ~に、昔の寒さに比べたらまだまだ序の口。なんせ、寒くて手がかじかんでクラッチ握れないから回転数合わせてクラッチ使わないでシフトして走ってたもんね。

どーゆーわけか、ワシはたま~に自分の体を痛めつけることを好んでする。黒いエナメルの皮に身を包んだおねーちゃんにムチで打たれたいとは思わないが、寒い日にかぎって夜中にバイクで遠出したりするクセがある。こりゃ、昔からそうなのだ。

なんか体が必死になるっていうの?たまにそーゆーことをしてないとだんだん元気なくなっちゃうのね。

ほら、寒い中から帰ってきたら体が温まってるじゃん。寒いから血が体を温めようと必死になってたんだなーと体感できるじゃん。そゆのを求めてる。

精神構造がね、2サイクルエンジンなのよ。の~んびりしてたら、カーボンが詰まって調子悪くなっちゃう感じ。だから、寒いけどなんか遠出しちゃうのね。

世の中にいろんなこともそうだけど、自分の身が置かれてる環境ってもんは、どんどん改善されるわけよ。寒いから暖かくするとか、眠るために快適な環境とか、つまり環境を改善するっていうことはいかに身体に負荷をかけないかってことなんだと思う。

近所のワシがナンパしたろうかいと思っているばあちゃんなんかも、昔、「辰」って名前の犬を飼ってて毎日散歩いってたのが辰が死んでから散歩いかなくなって、急に足腰が弱くなったって、カート押しながら言ってたもんね。

今の事務所も引っ越してきてしばらくはウチももが痛くて、よ~く考えたら、土間の段差の登り下りでの筋肉痛で、それだけ生活するだけで運動せざるを得ない状況だってことが解ったもんね。

もちろん環境の改善とか、便利になることとか、そんなことを否定はしない。が、やはり人間の認識なんてーのは相対関係で成り立っているわけで、その相対があるかないかがリアルか否かの分岐なわけよ。

脳学者のいってる「クオリア」なんてのーのも、つまりはこの「相対としての認識」なんだと思うよ。んで、ここから推論は飛躍しちゃうんだけど、量子力学なんかの概念なんかもこの相対の認識ってことなんじゃねーかと思うわけよ。早い話、「あーたがいるからワタシが確認でける」ってこと。ワタシだけだと、それは確認できないし、夢か幻になってしまうのね。まさに「観察者がいるからその結果が生じる」なのさ。

なんてことを考えながら、バイクは人口島の入り口についた…

が!自販機閉まっていた…。

だ、だ、誰じゃい!ガキがタバコ買うからといって自販機を11時までにした奴はぁああああ!

帰りはとてもつらかった・・・

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SEOと「裸の王様」病

きょは頭に血液が回らない。なにょで、仕事しない。ゆーがたに、のんびり校正を明石まで届けておしまい。ほっとの更新あるけど、ま、いいや。

あー、でもビデオの編集の仕事もあったよな。そういや、会社案内のパンフもしなきゃな。ネズミが餅ついてるイラストも受けてたしぃ…。

しかし、ワシの辞書に「頑張る」とか「努力」という言葉はない!たまにワシが努力家だという間違った認識を持っている人がいるが、嫌なことはできない、好きなことしかできない、で産まれてからずっと通してきたのでワシのNO努力は筋金入りのタマキンなのだ。

ワシが嫌なことをしているように見えても、それはどこか自分の中でゲーム化して楽しんでいるからであって、歯をくいしばってなんかしていないのだ。

この「努力しない」ということがモチベーションの維持に非常に重要なことだというのに気がついたのは最近で、多くの人は皆、努力しようとするから何も続けることができないのだ。

ビバ、ワシ! ビバ!NO 努力!

さて、おきまりの自己肯定で少しは脳に血が流れ込んだ。たしかにワシには自己肯定感を高める物質を含むジャスミンや、感情抑制物質を含む西洋オトギリソウ、セントジョーンズワートなどは必要ないかもしれない。脳の中でキーワードを含む言葉を唱えるだけで、これらの脳内物質があふれ出てくるからだ。

ビバ!ワシ! ビバ!言葉!

さて、脳内物質が溢れ過ぎるのも困るので自己肯定はこれぐらいにしておこう。

昨日の夜中は、ワシが制作している某ホームページのクライアントから検索エンジンとかでヒットしやすいようにしてほしいと依頼を受けていたのでその対策をすることにした。いわゆる、さーちえんじんおぷちみぜーしょん、略してSEOと言われるやつである。

ほっとかこがわもそうだが、ワシがつくるホームページはこれをほとんどしていない。なんでかっていうと、検索エンジンで旬なワードでひっかかって閲覧者が増えたところで、で?どーなの?と思うからだ。

もちろん、それは掲載する情報の内容にもよるわけで検索エンジンにヒットすることがいい場合の情報もある。たとえば、加古川で冷蔵庫を2階に持ってあがってくれるサービスをしている会社などなら、そういったワードで検索した時にヒットすれば意味のあるSEOになる。

ところが、アクセスをあげたいがために、そういったSEO対策のテクニックを駆使したサイトはどーなのよと思うわけだ。

最近では検索エンジンも進化していて、リダイレクトやリンクファーム ドアウェイページなんかはネットのトラフィックを増大させる行為としてスパム扱いされるようで、逆に検索キーワードでの表示順位の落下などのペナルティがあるようだ。

まともなWEBデザインをやっている奴は、そういったスパムまがいのSEOはしないのだが、広告がなんたるかを知らない奴ほど、そういったことをしたがる。

これが平面のデザインにも言えることで、クライアントのチラシが自分のキャンバスだと勘違いしているのだ。

ネットであれ平面であれ、デザインは「加速させる」という機能を持つ。よく「広告よりも口コミのほうが強い」といって広告宣伝費をけちる人がいるが、ワシから言わせると今までろくな広告を打てなかったのだとうなと思う。

それは依頼する業者の質という問題もあるだろうが、依頼する側の考え方というファクターも多い。本来広告は、「口コミをも加速させる機能」を持つものなのだ。

しかし、これは諸刃である。フィードバック論というのがあって、これは書きだすと本になるぐらいの話なのだが、簡単に言うと、いったん外部の出力されたものが、今度は外部から再入力されることだ。

最近では人材育成やセミナーなんかでも使われるようになってメジャー化してきた感があるが、ワシがよく言うエコロケーションやリレーション、コミュニケーションなどもこのフィードバック理論のごく一部だ。

ちなみに「裸の王様」もこのフィードバックがおかしなことになることで起きる一種の社会的な「病」である。

意味の無いSEO対策をしたホームページが、アクセスがUPしたものの、「なーんかあそこのHPねぇ…」なんて言われちゃうとそれはいわゆる「忙しくて倒産」みたいなことになってしまう。

これはビルの爆破の原理と同じで、少量の爆薬で巨大なビルをがれきの山と化すポジティブフィードバックだ。反響が反響をよび、内部亀裂を加速させるわけなのだ。

テレビコマーシャルでも、これが実に多く。基本的にちゃんとした商品を宣伝しなきゃダメってことで、西鶴閻魔教的言い方をしたら「ウソいっちゃダメ」ってことなのだ。

このフィードバックを考慮した広告屋やデザイナーがすげ少ない。加古川にいたっては皆無であったりする。

でもぉ、このフィードバック理論は、長くなるからこの続きはWEBで・・・(笑)

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アントマン西鶴

土間に面した部屋に仕事用パソコンを置いているのだが、どーも寒い。また動線上非常に不便だ。だもんで、庭の見える部屋にパソコンを移動することにした。

庭が見える部屋は、リラクスするのには最高だなと思ってソファを置いて打ち合わせ&ダラダラ&海外ドラマ堪能ができるようにしていたが、やはり仕事あってのOFF。まずは仕事環境のほうを優先すべきだと思ったのだ。

つか、たいてい仕事をするパソコンの前で過ごしておるから、庭の見える部屋は犬の部屋と化している。

メジャー片手にあれこれ採寸して大まかなレイアウトを決めたのだが、台所に置いてある作業台も庭の見える部屋に収まる。うむ、これで庭の見える部屋は完全に仕事専用になる。

しかしぃ、問題は縁側にとりあえず置いてある冷蔵庫。これはラウンジ用の部屋におけるタイプの冷蔵庫なのだが、これを移動させなけらえばならない。この冷蔵庫は2階にあげて、会議とかの時用の飲み物用にしたいのだが、こりは一人では無理。

実は、ワシは蟻の遺伝子を持つ改造人間で、荷物の移動が得意。どしたらこれを一人で運べるの?という大物でも一人で移動させる能力を持つのだが、改造途中でショッカーから口先三寸で逃げ出したので持久力という能力を授かっていない。

したがって引っ越しやには無理なのであるが、部屋の模様替えは得意なのである。

そのワシにしても、狭い階段をインテリジェンスなデザインのため、持つところがほとんどない冷蔵庫を運び上げるのは、かなり無理であろう。

とりあえず、ホームセンターでサカイが持っていたような肩に荷物をかけるでかいタスキのようなものを買ってきて、挑戦してみるつもりだが、腰壊れて、仕事できんかったら困るので、今度の連休あたりに挑戦してみるつもりなのである。

つか、ふと思ったのだが、部屋の荷物の移動なんかをしてくれるサービスは便利屋にカテゴリなのか?じいちゃんや、ばあちゃんの家はどうしているんだろか?

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同じ空の下

タダさんが入院されたのでオガワさんが集金に伺うそうだ。
午前中に伺うそうだ。毎月の簡易保険の集金だそうだ。

なんか留守番電話に入っていた。そんな簡易保険はいってねーんで、間違い留守番電話だと思うが、留守番電話なんでかけてきたほうも間違い電話に気がついてない。

これじゃ、午前中にオガワさんが集金に行っても留守かもしれない。きっとオガワさんは舌うちし、「ちゃんと午前中に行くて電話で連絡したのに」と思うかもしれない。

集金されるほうは、「そんな電話聞いてねーよ。しかも一方的に午前中に行きますってワシも暇じゃねーんだよ」ということで小さなもめ事になるかもしれない。

かもしれないの連鎖でしばらくワシは頭の中で想像をめぐらせ遊んだのだが、はて?この「午前中に伺います」なんていうのはいったい何時のことだろうか?

まさか朝の5時とか6時ではないだろう。朝のそんな時間から集金に来られたら1日が気分が滅入る。11時59分なんてのは、感覚的にはもう昼なんでこれも違うだろう。たぶん、9時、10時頃ではないかと思う。

この手の言い回しは、けっこうよく聞く。午前中に…、昼から…、昼一番に…、朝一番に…。

いったい何時なのかわからないので、ダラダラと待つことになるからビジネスではなるべく時間を言うにこしたことはないのだが、こういった時間の区切りは昔は普通だったようだし、そもそも腕時計なんかしてない時代は太陽の位置でたいたいの時間を計っていたようだからだ。

携帯できる時計は1500年頃にピーターヘンラインがゼンマイを発明してから普及されたようだが、その用途としては正確な時間に神に祈りを捧げる目的だったようだ。

その後、航海が盛んに行われ、貿易なんかをする際に時間はビジネスに重要な要素となり、より正確な時間が計測できる機械へと進化していった。

そんなことを考えながら夜中に河川敷を散歩していたら、今日は寒いのでやたら星がきれいだった。

この星なんてーのも、よほど距離が離れないかぎりは同じ空を見ることができる。

ウルトラセブンの有名なセリフに「あけの明星が輝く頃1つの光が宇宙へ飛んでいく。それが僕なんだよ」というのがあるが、時間を特定しないことがこのセリフのかっくいいところで、ロマンチックなところだ。

時間は、「同じ情報を共有する」ということでは言語よりも広いルールだが、そのココロは、「きっと遠い空の下、同じ星を眺めているんだよ」なんていうロマンチックなものなんじゃねーだろうか。

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トイラフックジャム

この前、ある方とお話をしてて、世の中のトラフィックジャムを産み出すのはたった一人の人間だという話をした。

アスクルがアサッテクル事件も、一人の佐川のサポータードライバー、いわゆる外注の配達員がアホだったがために、アスクルの作り上げたシステムは脆弱にも崩壊したわけだが、世の中にはこういったことは実に多い。

アスクル事件を説明するのもじゃまくさかったので、つか、あんまワシはお話する気はなかったのだが…たとえで高速道路の話をつかった。

「たとえば、高速道路で遅い車が走っていたら迷惑じゃん。日本は弱者にうわべだけはやさしい社会だから、別に高速下りろとは誰も言わないよ。ちゃんと左の車線があるからね。遅い車が右レーンを走らなければ迷惑にならない。ところが右も左も遅い車が走っていたらどーなる。たちまち渋滞になる。」

このたとえは、理解できるようだ。

「ボランティアの定義もそうで、タダでなにかすることだと思ってる奴がいるからジャムがおきる。たとえば、イベントをタダで請け負いまーすっていう馬鹿がいたら、イベントの質は悪くなるし、業者は飯くえなくなる。これって迷惑なのよ。」

「ナントカ会議所なんかも、アホなボクちゃんに世の中の勉強させるっていうんでお父ちゃんが、おまえは会社こなくても給料やるからボランティアしてこいって行かせるから、おかしなことになる。ガッコでも塾でもねーんだから、まずちゃんと仕事できて世間で通用するニンゲンになってから外に出せってんだ」

そういや、社会で経験を積むなんてことを平気で言う親も多い。

いかにも自分は子どもに理解があり、親の考えを押しつけないんだと自慢するかのごとく、「子どもには好きなことをやらせている。それも勉強で、何かあったときに助けてやればいいと思っている」と昔ワシが子犬の育て方で「飼い主が謝って頭をさげた分だけ、犬は賢くなってゆく」の屁理屈をニンゲンに置き換えたようなことを言うのだ。

そういや、ある会社の人事担当の人は、「最近はしつけレベルから研修しないと使いものにならない」なんて嘆いていたな。

ま、この人事の人は研修することで金もらってるわけだからいいとしても、そうでない人から言わせると、「なんで他人のお子様のしつけをワシがせにゃならんのだ?」ってことだ。

外の飯を食わせたけりゃ、丁稚奉公だ。まずそこで最低限の車の運転を覚えてから高速道路にデビューしろっての。

世の中には、実にいろんなことに顔を突っ込んでいるボランティア馬鹿がいて、いったいこの人は自分の本業や生活はちゃんとできているのだろうかと思うことがある。

実際は、自分の本業も生活も自分では何もできていなくて、嫁や親や会社の人が助けている場合が多いのだが、本人はそんな回りの助けなんかを微塵にも感じていなく、すべて自分の能力でやっているのだと思っていたりする。

こうった人は、ボランティアをすることで「むりやり社会の歯車に割って入っている」のだ。

おそらく、ボランティアでないと誰も相手をしてくれないのだろう。
これが仕事となると、能力のない人に仕事なんか頼むやつはいないから成り立たなくなる。タダでやってるから、周りの人も文句のつけようがなく、「まぁ、いいか」で済まされてしまうから本人は自分の無能さにいつまでたっても気がつかないのだ。

こういった裸の王様は例外なく、打たれ弱く、なにか問題が生じるとすぐに「ボランティアでやっているのに」とか、「金にもならんことで疲れる」とか、「趣味でやっている」とか、あげくのはてに「も~や~めた」と逃げる。

こういった人が、自分の子どもの教育を「経験を積ませる」なんていう言葉でごまかし親の責務である子どもの教育を放棄してしまい、外に任せようとしてしまうのだ。

そしてトラフィックジャムを産む個人が遺伝したかのように親から子へ受け継がれていく。咳をするときに口に手をやらない親の子が、同じく咳をするときに口に手をやらないどころか、パン屋のパンの棚の前でゴホゴホやるように、である。

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西鶴閻魔大王

「ほほう、貴様は生きているときは多くのボランティアをし、まじめに世のため人のために働いてきたというのだな」

「しかし貴様は大きな罪を犯しておる。それは自分が罪人だと自覚しておるドロボウよりも、始末が悪い。なにしろ自覚すらないのだからのお」

「貴様の犯した大きな罪。それは見えているのに見えないふりをしたこと、聞こえているのに聞こえないふりをしたこと、言うべきことを言わなかったことじゃ」

「よって、貴様は見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない、言おうとしても言えない罰をうけることになる」

「何?不服を申すというのか?何?生前は信心深かったのにこんな罰を受けるのはおかしいと?ぬわっはっはは…笑止千万…」

「貴様の信心していた宗教では、見ざる言わざる聞かざるは罪だと説いておったはずじゃ。それすらも知らんとは信心も聞いてあきれるわい」

「何?そんな教えは聞いてないと。ぐわっはっはっは…それはワシのウソじゃ…今、つくったんじゃ」

「よいか、罪人。聞こうとしても聞こえない罰を受ける前によく聞いておくがいい。人は、事実を見るために目があり、それを自分以外の人に伝えるために口があり、そして人の見たものを聞くために耳がある。その3つをつかってこそ、生きているといえるのじゃ。

都合のいいものだけを見、都合の悪いことを言わず、聞きたいことだけを聞くのはウソの世界じゃ。それはワシがもっとも重い罪と定めた閻魔憲法に反することじゃ。

ウソから誠が見えることはあっても、ウソからはウソしか産まれない。つまり、ウソは未来を封じ込めることになる。だから、大罪なんじゃ。おまえはこれから見ざる言わざる聞かざるの3大お猿地獄へ行くことになる。そこでただ一人、暗闇の中に漂い、世界と触れることのない恐怖を感じ、見る聞く言うことの尊さを肌で感じるがよい」

「んでは、閉廷!今日の裁きはここまでじゃ」

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走る!ヘッドライト

夜中に河川敷を散歩していたら、土手を走る車のヘッドライトがまぶしくて、クラクラするのだが、最近は車はライトを上向きで走るというのがスタンダードだそうで、警察なんかもそう指導しているらしい。

にわかに信じがたい話だが、車のライトを上向きにするようにと指導したどこかの自治体では、たしかに交通事故の割合が減ったという統計があるらしいのだ。

まあ、この統計の数字なんてものほど当てにあらないものはなくて、最近では「肉を食べると長生きするという統計結果がある」なんてことを天下の新聞がホイホイ掲載したりするということがあった。

アメリカの牛がらみのうさんくさい情報ソースなのだが、この「統計」という言葉でひっかかる奴は以外に多いのだ。

前にほっとのお茶会でも誰かが「肉を食べたら長生きするって新聞に書いてた」というので、じゃこういう言い方したらどう?「長生きできたから肉を食べれた」というと、そのカラクリが解るようなのである。

車のライトを上向きにしたら事故が減った…ほお、車のライトが上向いてたら、まぶしくて走れないんじゃねーか?車が走らないならたしかに事故は減るだろうよ。

中には、事故が減るならまぶしくてもいいんじゃねーかと、本末転倒なことを言う奴まで現れる。その理屈で言うなら、車を禁止にしたら事故は確実になくなるだろう。

酒を禁止にしたら、飲酒運転はなくなるし、アルコール中毒もなくなる、犬飼うの禁止にしたら公園のうんこはなくなるし、捨て犬もなくなる。究極を言えば、生きるのをやめたら生きるのがつらくなくなるんじゃねーか…あ、だから皆 練炭抱いて死ぬんかの?

まあ、ライト上向がスタンダードになんかは決してならないと思うが、なぜこんなアホなことがまかり通るのかのほうが、すげー不気味である。

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2007年12月 8日 (土)

戦場の犬たち

ここんとこ仕事で毎日神戸行き。バイクで行っているんで疲れるのだが、今度神戸版の探検地図なんか作ってみようかと思う。つか、ほっとかこがわよか、ほっとこーべのほうが、ワシ的には戦略的なんじゃなーい?

んで、あんまり時間がないけど、まっすぐに帰らずにウロウロして帰るわけ。昨日は少し時間があったので本屋に寄った。張り付くべきところは決まっている。写真集の棚だ。

しかし、本って高いよな。とくにグラフィック関係。なんか比較的ほいほい買ってしまうけど、本1冊とユニクロの服ならユニクロの服のほうが安い。つか、この前買ったジーンズ…ユニクロのジーンズなら5本買える。

…もしかしてワシ貧乏なのは、贅沢なにょか?でも買った服は10年ぐらい着てるぼ。

つか、スタバの200g1980円の豆は贅沢だよな。でもでもワシ飲み屋にはいかねーし、パチンコもしねーし、競馬もしねーし、スロットとチェッカーなら絶対負けないけど、出入り禁止手配回ってるし、つか、そんな非合法な店は最近みかけねーし…

ま、贅沢かどうかは後で検証するとして、その本屋でみつけたのが「戦場の犬たち」という写真集。ワールドフォトプレスから発行されているのだが、このワールドフォトプレスって、写真の版権ビジネスの会社じゃなかったかの?

あ、そうそう、写真の版権ビジネスについてはワシすんばらしいビジネスアイデアを持っているんで金か実行力のある方はご連絡を…
ワシは、喫茶店のメニューつくるんで忙しいからのぉ。儲けの度合いと仕事の優先順位は関係性としてリンクしてないからね。おっ、もしかしたらコレが貧乏の原因か?普通、儲けの大きい仕事は優先順位高いよな。

ま、それは後で検証するとして、「戦場の犬たち」だ。

サブタイトルに「母さん、ボクも帰りたかった」とある。だもんだから、地雷を背負って戦車の下に潜り込んだ犬の写真とか、軍役が済んで戦場にそのまま置いていかれた犬の写真とか、そういったものが載っているのかと思ったわけ。

でも、帯についていたバックパックを背負って鉄条網をジャンプしているダルメシアンの写真がやたら気になって中を開いてみた。

そのダルメシアンの背負っていたのは地雷ではなくてお手紙。前線で戦う兵士に伝令やら家族からの手紙やらを運んでいるのだ。

また他の写真には、兵士の顔を舐める犬とか、戦場で子犬が産まれ、兵士が銃を片手に嬉しそうに子犬を抱きかかえている写真とか、そういったものが収められていた。

たぶん、写真集にするときにヘタくそなデザイナーか、ディレクターが、この写真集のなんたるかを考えもしないでつけたサブタイトルなんだろう。ワシに仕事させたら全然別のものになったのにぃ。

この写真集に登場する犬たちは、戦場下においてもニンゲンと共に暮らし、ちゃんとお仕事をし、そして兵士にも可愛がられたそんな犬の物語だ。表紙には耳を負傷し痛々しくも包帯を巻かれているレトリーバーの写真が飾られているが、犬の黒とこの戦時下に置いての真っ白い包帯のコントラストが、幸せそうに見える。

おそらく戦争=悲惨なもの=かわいそうな動物たちなんていう図式が脳に洗脳されたがごとくインプットされた純粋培養な人には、戦争の悲惨さをとらえた写真というレッテルの付け方しかできないのだろうが、ワシがパラパラとみた限りではそうではない。

夢もチボーもない戦時下に置いても、決して犬と人の絆は揺るがない。そんな心あたたまる写真集なのだ。

人は不幸から身を守るために群れをつくった。その群れは資本主義やあるいは社会主義なんていうものが世の中を浸食するにしたがって社会」というものに変貌していく。この社会という言葉が日本で使われるようになったのも、ここ最近のことで、ソーシャルという単語を日本語に訳するときに作られた造語なのだ。

この写真集にでてくる犬よりもだ。今の平和な日本で見え隠れする犬のほうがよほど、「母さんボクも・・・」だ。ホイホイ捨てれ死んで行く犬や、金を産む機械になった犬や、犯罪者でもないのに1日繋がれた犬や、目をちゃんと開けていれば、これほど残酷なひどいこともないのがよくわかる。

この社会が、できあがったことで人は戦場の犬たちに見える優しさや、デフォルトで持っている分け与える心や、涙する心や、そんあものを失ったんじゃねーかの?

地獄に仏という言葉がある。これは地獄で仏様にあって「ああ、助かった」なんていう意味だと勘違いされているようだが、真意はそうではない。

地獄でしか仏の姿は認知できねーんだよというのが、本当の意味である。

この写真集は、地獄で仏を見る写真集で、この写真集の真意が見えない人も多いのが事実だ。

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オープンソース

田舎のほうにいけば、「カラオケ喫茶ミッキーマウス」とかだな、「スナック トムとジュリー」みたいな店が1件ぐらいはある。堂々と看板をあげて営業しているのは、こういった行為が何たるかを全く理解していないからで、無邪気なものであったりする。

加古川では、も少し悪意があって「カラオケ喫茶ネズミーマウス」とか「スナック トムとジェリー」になって、ひげが1本多くなったり、猫の色がピンクだったりするわけで、似てるけど違うよとなるわけだ。

カラオケ喫茶やスナックが、この手の店名をつけてもそれで利益が増すとは考えにくいが、他人の企画とかデザインで利益を得るならそれはもう完全なドロボウなのであるが、ここらへんになると頭が悪いのか、犯罪意識は皆無になる。田舎のカラオケ喫茶なみだ。

そういえば、酒屋の大将が、おもしろいことを言っていた。

「加古川は昔、どろぼうの町やったんや」

大将が言うには、加古川が増水し、足止めを食らう旅人をねらう「雲助」がたくさん住んでいたそうだ。雲助や宿屋やまんじゅうや、土産ものや、ヤクザに博徒、女郎小屋。そんな旅人ねらいの人達が集積しできたのが加古川という町だというわけ。

たしかに、姫路の城下町に比べると文化の懐ぐあいがかなり浅い。定着するというよりは流れにできた淀みのような感じがある。北のほうの農家の文化とも少し違う。

近所に赤壁神社というのがあって、そこの稲荷の横にはなで猫という石の彫り物があってギャンブルに霊験あらたかだそうだ。昔、負けがこんでた博打うちを猫が片目をつむり丁は半かを教えたというのが由来なのだが、川の氾濫が収まるまで、のらりくらりと旅人達は博打を楽しんでいたのだろう。

はて、今は加古川には風俗らしき風俗が皆無で、最近になってデリヘルやエロいマッサージなんかが、時々できてたりするが、なんでこんなに風俗がないかというと条例で禁止されているからだ。

もともと雲助でヤクザの町が、姫路の魚町のように繁華街として繁栄しなかったのはこのへんに理由がありそうだが、純粋にアウトローの町として繁栄したほうがよかったんじゃねーかと思える。

今や、石を投げれば2代目3代目に当たるぐらい、おぼっちゃまな人が多い加古川だが、アウトローのイメージは皆無で、無邪気で無知なドロボウといった感じだ。

その気質は、たとえば「一戸一灯運動を推進する団体には助成金を」なんていう施策にもその影を落とす。ワシ的には助成金で街灯つけれや!というところだが、発想が、金をばらまく方向にどうしてもいっちゃうみたいだ。

どーも、このあたりがワシは理解できない。

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貧血脳とマジンガーZ

昨日はけっこう寝たのだが、どうも頭に血がちゃんと供給されていないような感じでボーッとしていて、やたら眠い。そんな時は、たとえ30分でも寝たらスッキリするんだが、納品の商品を待っているんで眠るわけにはいかねえ。

んで、きょうはお茶会なんでその時の資料をまとめようとしたのだが
頭が働かないのでできない。じゃ、今抱えてる仕事を少しでも進展させようと思うがこれもまたできない。

疲れた肉体労働者が使いものにならないように、頭に血が供給されない頭脳労働者は使いもんにならない。

で、ミクシイやブログの文章なら書けるということは頭使わないで書いてるからなんだろうなと貧血脳で考える。

はて、文章とかは脳の中のアウトプットなのだが、この脳の中の考えとか思いとか、そういったものはどんな形で蓄えられているのだろうか?

思いをアウトプットする段階で適切な文章に変換されていることは自分の行動や考えを注意深く客観的に観察すれば解る。もちろん客観的に観察するのが自分であるから、それは本当に客観的かといえば疑わしい。

ワシは子供の頃、自分の視界に移る鼻や目の回りの肉体が不思議でしかたなかった。

特にワシは鼻の高いナイスガイなんで視界にクッキリ自分の鼻が見えるのである。時には自分の鼻がじゃまして足下が見えないこともある。

「天狗の鼻」なんていうたとえがあって、調子こいていることを意味する言葉であるが、調子こいていると自分の足下が見えずに、すっこけるよという訓戒が込められているのをワシはまさに自分の身をもって知っているのだ。

ま、それはいいとして…自分の体の一部が視界にはいることをワシはこう考えていた。

「ワシはワシという乗り物にのってワシを操作しているのだ」と。

マジンガーZ世代である。巨大ロボットに操縦席がついたホバークラフトでパイルダーオーン!し、操縦する。そんイメージだ。だから、辛いことや具体的に肉体に痛みも、それはワシロボットがそう感じているわけで、ワシ自体の痛みではない。そんなふうに思っていた。

親戚の家を追い出され、暗い山道を夜中にオヤジとてくてく何十キロも歩いても眠いとも疲れたとも言わないのは、ワシが疲れているからではないという確信があったからだ。

最近知ったのだが、この傾向がさらに強く固定化されるところから二重人格というのは生じるらしい。実際、ワシもこの操縦している本当の自分を実は操縦している自分がいるのではないかという、箱の中の箱の中の…なんていう、どかの外国の土産品みたいなことを考えたことがあった。

ワシは頭が最高にいいから、仮説に仮説を組み上げることのバカバカしさを子供の頃から知っていたのでそれ以上考えることはしなかったが、自分の中の自分の人格を固定化させることで自分の中にまた別の自分が形成され、体験や時間とともに成長してしまうのだろう。

ふと庭を見たら、やくざ犬が日向で気持ちよさそうにうつろいでいた。あんまり気持ちよさそうなので、パソコンを庭に面したほうのテーブルに移動して庭からの風を感じながら打ってみる。

うーむ、気持ちいい。やっぱ庭に面した部屋を仕事する場所にしよう。でも配線がややこしいな。時間ねーから正月にでもするかな。

はて、この気持ちいい。これは風が皮膚にあたったり、日向のあたたかさを脳が想像できるからであったりするからだ。

それを文章にしてアウトプットするから、自分が考えたり感じたことが一呼吸遅れ、そこにデジャビュのように混乱が起きるのである。

脳の信号もパソコンと同じようにその信号のファイルにはデータフォークが埋め込まれていて、この信号はどこどこのアプリケーションで何時作成されたかみたいな番地のようなものが割り当てられているのだろう。それが文章にする段階で、ゴチャゴチャになるのかもしれない。

貧血脳は考える。

そう、「私は嘘しか言いません」というのが文章の基本的なバグなのだ。このバグゆえに、自分の考えはどこからくるのか?自分は誰なのかなんていうことを考えてしまうのかもしれない。

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旅芸人のかつめし~かつめし異聞~

播州姫路に伝わる怪談話であるお菊井戸。いちま~い、にま~い、さんま~い、ししま~い、今何時?え、6時‥ななま~い…

このお菊井戸にそっくりなのが、東京の番町皿屋敷。ほかにも広島とかにも似たような話がある。

また姫路にはお菊虫という虫がいて、女性が後ろ手に縛られたような形をしている蛾のさなぎだ。これはお菊の呪いが虫にとりついたということで江戸時代、姫路城下を震撼させたこともある

昔、ワシはこのお菊虫のことを何かで知り、いろいろ調べたのだが、そこで面白い仮説にたどりついた。全国に散らばるお菊の怪談話と酷使したおはなし、そしてお菊虫。これらをつなぐ鍵は、江戸の時代の旅芸人がにぎっていたのだ。

つまり、旅芸人は日本全国を旅しながら演劇を行うわけだが、その演劇にリアリズムをもたらすため、微妙に出し物をその土地土地で変えていたようなのだ。姫路では姫路城の話にし、東京では番町にあるお武家屋敷に話をかえる。

また、たまたま見つけた蛾のさなぎがそう見えたため、これがそのお菊ののろいだーって宣伝するのだ。その結果芝居は押すな押すなの大盛況になる。

お役人の横暴ぶりを皮肉ったこの怪談話は、その土地のリアルとまじりあい大ヒットしたわけだ。

面白い時代だったんだろうなと思う。文化のカンブリア期だ。

女性がただ一人で旅ができた時代である。弥次喜多のようにさほど金を持たずとも旅ができた時代である。参勤交代や旅芸人がカルチャーを、日本中にシャッフルした時代だ。

食の文化にもこの旅芸人は一枚かんでいる。

加古川の土着の「かつめし」も、四国のほうから旅芸人によってもたらされた食文化だ。時代は文明開化の頃、四国では牛ではなく鯨肉をつかっていた。たしかに鯨肉にもデミグラス系のソースはあいそうだ。

捕鯨の盛んだった四国では、鯨肉をつかったカツめしならぬ、くじらめしを作って、「これが西洋の料理だーっ!」なんて具合に食べていたのだろう。

それを食べた旅芸人が、旅の途中に加古川の増水で足止めをくらい、その宿の人に作らせたのが鯨の変わりに加古川では安く簡単に手に入る牛の肉のカケラ。包丁とかについたミンチ状になった肉のカケラを集めて伸ばし作ったのがカツめしのルーツだ。

カケラは、やがて肉を叩くという手法に変わっていったが、食文化もお菊と同じように、その土地土地で微妙に変化し、やがて土着のものとして定着固定化されていく。

時間と距離によって熟成されていく文化。それは一人のクリエータによって作られる今の映画や音楽と違い、はるかに奥が深く面白いものだ。まさに大衆によって変化進化し、つくられたものだ。

ではそれらの大衆文化は過去の良き時代の形見になってしまったのかというとそうではない。カルチャーなんてもんは雑草みたいなものでどんな時代でもけして消え失せることはない。人の営みがそこにあるかぎり形はかわれど、かならず存在する。

今、大衆でつくりあげられるカルチャーはネットにある。たとえば2ちゃんのギコネコなんかがそれだ。アホな商業主義は、いくどかそれを「自分のものにしよう」と試みたがみごとに会社の姿勢を問われただけで終わることになった。

犬飼いの間で知れ渡る作者知らずの詩「虹の橋」なんかも、ネットをさまよううちに誰かによって加筆されたり、修正されたりしながら、多くの人の心を感動させてきた。

貿易センタービルのテロの追悼かで有名になった「千の風」もそうだ。こちらは、日本では曲をつけられ著作権扱いになっているようだが、ワシ的にはドロボウのような気がして素直に感動できない。

ネットで語られ続ける「100人のむら」の詩も、どこかの日本人が絵本にして、各地で講演を行っているが、なんかイマイチ納得できかねる気がしている。

もともとネットは商業主義とは遠いところに位置するものだった。オープンソースのUNIX系OSがそうであるし、「皆で情報を共有しようよ」というところが目的であるのだ。が、しかし、そこはパチクリ放題なのかというとそうではなく、ちゃんとリスペクトがあっての情報共有なのだ。

ちなみによくほっとかこがわの謎のキャラクター「どら播左右衛門」ドラえもんのパチクリだという人がいるが、これはパロディのつもりだ。パチクリとは、「他の人がつくったものや、考え出したものを自分がつくりだしたがごとく偽り、経済的もしくは精神的な利益を得る」ことを言う。この定義が理解できていない人は意外と多い。

ワシはよく企画やらアイデアをパチくられるが、あまり著作権がどーのとかを言う気がしない。それは、じゃまくさいというのも多少あるが、どこか頭の中に、アイデアや企画がオープンソースとして、さまよい、誰かのアイデアと融合し進化していくという夢想を想像するからである。

大衆文化や、UNIXや、ネットで流れる詩のように、機能してくれればいいと思っている。

しかし、リスペクトがなく、たんなるドロボウが横行する中、もちろん盗まれたということは言うべきことで、それをよしとしてしまっては、ワシはいいにしても、他の同じようにパチくられてる人に申し訳ないし、迷惑をかけることにもなるからだ。

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ワンコ強化週間

ウチのわんこ。引っ越しで環境が変わったので、今までできることができなくなってたりする。

たとえば、お散歩のときにエースやウォーフが行方不明になることが時々ある。

夜の河川敷は街灯ひとつなく、おまけに土手を走る車のライトが目つぶしになるのでよく見えない。エースもウォーフも近くにいるがワシが見失うケースもあるだが、それは反射ベルト&100円ショップのキーライトで対処した。

が、問題は遠くに離れてしまった場合。どーもエースは多少耳が遠くなったようで呼びの声が聞こえないようでもある。しかし本人はその自覚はなく、どんどん遠くまでいってしまう。

思うに、河川敷は犬には「勝手知ったる…」なのだ。KRDCのイベントはいつも河川敷だったし、車に乗っていく少し遠出の散歩の半分以上は河川敷だった。しかし毎日散歩にきているわけではないので「特別な場所」プチ遠足気分なのだろう。つまり、はしゃいじゃうのだ。

引っ越し前の場所では、散歩コースはあえて固定しなかった。ワシがどこに行くか解らないので犬はたえずワシを目のはし、匂いのはしで追う。だから呼んでも解らないほど離れることはなかった。

しかし、河川敷では道といえば北へ向かうか南へ向かうしかない。ワシは南へむかえば、エースやウォーフはどんどん南へ先にいってしまうのだ。

けいちゃんは紐付きなので例外で論外だが、ヤクザ犬はどこかでよからぬことをしている以外は迷わない。常にワシとはぐれることを想定しているからだ。しかしエースやウォーフは、ワシとはぐれることなんか全然想定していない。かならず、逢えると信じているからどんどん先に進んでいく。

こりはちと困るなと思ったので、もっとも基本である「呼び」の練習をもう一度始めることにした。

問題は呼んでも帰ってこないのではなく、聞こえないほど遠くまで先にいってしまうことにある。そこで、方向転換する合図に口笛を3回ふき、反対方向にいくか、その場でジッと待つことにした。しばらくしてワシが来ないことに気がつき探しにもどってくるのだが、何回かすると口笛が方向転換の合図だと理解できたようだ。

本当は、犬笛がいいなと思ったのだが、常に持ち歩いてないし、オシャレな彫刻のしてあるネックレスとしてアクセサリー的なものがなかなか見つからないからとりあえず口笛にした。声よりも高周波だから聞き取りやすいだろう。

はて、次なる環境が変わったせいで発生した問題は「ひっぱる」のである。常にひっぱるのではないのだが、なにか興味があるときにエースとヤクザ犬ががリードをひっぱるようになった。

これは頭の中でまだ完全なマッピングができていないのと、河川敷までは車が多いからリードをつけるようにしたのでリードがついているときは安心だという依存状態だ。リードをしていることで興味あることに完全に集中できちゃうのだ。

これにはワシ特性のグッヅを使う。前にも一度つくったことがあって、多くの犬にためしたやつなのだが、英語の単語帳なんかについているカードを束ねるリングをヤスリでけづり、はずれ安くなったもので首輪とリードを繋ぐのだ。

ヤスリで削っているから、急なテンションがかかるとリードがはずれるしくみだ。リードがはずれたら「あっ」といって多少おおげさにワシは反応する。犬はテンションがかかったことを理解しているから、これを何回か繰り返すと、気ずかうようになる。

以前は、人が多いところでリードをするときにこのリングを使用していた。人が多いとこではリードはすごく危険だ。たとえば、急に自転車が飛び出してきたばあい、犬とワシ正反対の方向に逃げるとリードで通せんぼしてしまう形になる。犬1匹だと、ぴったり横につけておけばいいのだが、犬4匹は無理だ。しかし、ノーリードだとなにかとややこしいご時世なので、なんちゃってリードとして活用していた。

引っ越しのときに、このリングがどこかにいってしまったので新たに作り直そうと考えている。

犬の訓練道具やらしつけの方法論で、ワシが気に入らないのはそれがショートカットされていることが多いことだ。以前、犬のルームランナーにかみついたのも、「これで犬の散歩のつらさともオサラバ」なんてことを言っていたからだ。

これらの便利グッズで抜けおちているのはリレーションだ。関係というのが自分と自分以外の者が意志を通じ合わせ、おたがいの妥協点をみいだすことなら、道具も方法論も、すぐに結果を出すことのできるショートカットなものは、意味のないしろものである。

へんなたとえだが、AVのおねちゃんと生身のおねちゃんの違いはそこにクオリアがあるからとか、ないとかではない。リレーションがあるかないかの違いである。リレーションを求めなければ、抜いちゃえばそれでおしまいである。それはむなしいし、つまんない。

「犬とはバタバタ暮らすものだ」というのはワシの口グセみたいになっているが、このバタバタというのがリレーションなのだ。ショートカットからは、関係は築けない。そこにあるのはむなしい一方的なマスターベーションでしかない。

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写真撮影

ぬぉおおお…さすがに疲れた。写真撮影3時
間半…。

下手くそなんで、とりあえず数を撮る。とにかく撮る。いろんな設定を変えて撮る。撮って撮って撮りまくる。

そんな山のような写真の中から、まぁまぁかなっていうのが1枚はある。ま、このやり方で上達するんだな。体で覚えるつーの?

そいや、今の仕事はじめたときも雑誌やら、かっくいいチラシやに写植の級数表を当てて、文字の大きさや行間や字間なんかを測りまくった。測って測って測りまくった。そのうちジャンプ率とか、行間とかの取り方が解ってくる。

グラフィックデザイナーである宗教団体に入信してそこの広報をてがけていた彼の明朝体の使い方は素晴らしいのだけど、その明朝は皆、長体の1番か、2番がかけてあることとかも解ってくる。

こゆのも体で覚えるつーの?柄悪くいえば、体で教えたろかい、おらおらなのだ。

ワシは誰かの弟子になったことも師匠になったこともない。いつも一人で何かを憶えてきたのだが、たぶん丁稚奉公なんてのはこゆこと、体で覚えることなのだと思う。

体が覚えたところで、理論に入る。でないと理論なんて理解できないのではないだろうか。

最近はなんでもかんでもショートカットだ。体で覚えるなんてことはなくて理論から入る。これは丁稚奉公、師弟制度が、金をとって何かを教えるビジネス教育に変わったからだ。

ビジネスとしての教育では、自ら何かを学んだのでは、金にならないから、何かを教えないといけないということになる。

んが、そのビジネスの教育では、学びのもっとも重要な要素である、発見することや上達する「喜び」が教えられないのではねーだろうか。

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遺伝するアホ

アスクルがアサッテクルになって、佐川とアスクルを交えたゴタゴタは、ワシの考えた落としどころで手をうてたわけだが、近所のセブンイレブンで例の佐川のアウトソーシングのドライバーがパンとジュースを買っていた。

車には宅配荷物が載ってたから、どうやらまだクビにはなっていないようだ。ま、ワシんとこに来るドライバーは佐川の正社員にかわったからどうでもいいんだが、このドライバー、ワシんとこではペコペコ頭を下げるくせにセブンイレブンではすげー態度がでかくて、金をレジに投げるように払ってた。安物のドラマに出てくるチンピラのようだ。

んで、セブンイレブンから中道を通って事務所へ帰ったのだが、途中でこのドライバーの車が前を走っていたのだが、窓からさっき買ったパンの袋やペットボトルを投げ捨てていた。

うはっ、処置なしだな、これは・・・。佐川もこゆのにアウトソーシングしてるようじゃダメだな。

たぶんね、このオッサン、世の中のしくみがよく解ってないのだ。

セブンイレブンで態度がでかいのは、金の流れがエライ順番だと思ってるからで、ワシんとこで、こっちが恥ずかしくなるぐらいに頭をペコペコなのも、そう、金の流れがエライ順番だとおもってるから。金はらったもんだから、ゴミを窓から捨てるのを当然の権利だと思ってやがる。世の中には金で人を奴隷のように使う人と、使われる人しかいないと思ってるんだな。

たまにワシに仕事を発注してくる人で、だいたいが主婦が多いが、そんなふうに思ってる人がいる。ガッコでてからすぐに結婚したから世の中のしくみが解らないのは無理はないが、そこは仕事なんで根気よく「仕事に上下関係はなくて、お互いが同じ立場なんだよ、共同作業なんだよ」と説明するのだが、だいたいは理解してくれる。

が、中にはどーしても解らない人がいて、こゆ人は、「仕事」の概念自体が解らないのだな。

本屋で「格差社会が遺伝する」だったかな?そんなタイトルの本が売れているらしく、平台に積んであったのでパラパラみたのだが、つまりはアホな親の子はアホ、貧乏な親の子は、やはり貧乏って内容だ。

ま、遺伝なんてーのは最近の本名前の付け方の流行で、売れそうなタイトルやセンセーショナルなタイトルをつけたがるだけのことで、ワシ的には知的な感じがしなくて、三流週刊誌レベルのタイトルで気に入らないのだが、実際、アホや貧乏が遺伝するわけはないのだが、実際にアホや貧乏が親から子に受け継がれることは数多くある。

たとえば、今日、ニッケで食料を買っていたら、高校生ぐらいのおねちゃんが、カップにはいったアイスを食べながら買い物をしていて、なんせカップアイスなもんだから両手がふさがっていて、ごほごほ咳きをするのだが、口に手をあてるわけにもいかないのね。

しかもそれが、パンを売ってる売り場で、パン屋の人も見て見ぬふりしてて、ワシはすげーなと思ってボーゼンと見てて、そしたら、その後ろから母親らしき人が一緒に買い物してやがるのね。

おいおい、娘のことちゃんと注意しろよと思ったのだが、たぶんこのお母さんも同じことするんだろうね。

きっと、このおねちゃんは彼氏ができて注意されるまでゴホゴホするだろう。いや、口に手をあてて咳することを知らないおねちゃんだから、きっと飯くいながら屁でも平気だろうから、彼氏できても、そゆことが平気な彼氏だろうな。

なら、いつまでもこのおねちゃんは下品なままで、子どもができても自分がしらない概念を子どもに教えることはできなくて、子どもも口に手をあてずに咳しながら、飯くいながら屁をもらすんだろな。

これで親子3代下品の遺伝子は続くわけだ。

教育とは、なにか答えを教えることでも暗記することでもなくて、もっとも重要なのは「概念」を解らせることだ。これはニンゲンの教育でも犬の教育でもウサギでも皆、同じ。

ヘレンケラーが水を手にしたとき、「これがワーラーよ」っていっても、冷たいのがワーラーなのか?それともこの手に触れる液体がワーラーなのか?この水の概念を教えるのが重要なのねん。

犬も、概念がわかれば、フリスビーを持ってくることが、買い物袋になっても簡単に理解できる。「それ」っていう概念がわかれば「それ」って指させば、その時々の「それ」を自分で捜すようになる。いちいち個別にいろんなことを教える必要なんてなくなるのだ。

佐川のアウトソーシングのドライバーは、きっと仕事というものの概念が解らない。このおねちゃんもその母親も、下品の概念が解らない。

最近は、個人重視の世の中なんで誰も注意なんかしてくれないから、ますます解らないまま済んでしまうのね。

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