2009年7月 7日 (火)

リクオライブで見つけた「盲目のカラス」

リクオのライブに行ってきた。ワシは思うに、リクオの人気はわかりやすさだな。アニソンと同じ。とはいっても最近のアニソンではなくて昔のアニソン。「ひょっこりひょうたん島」とか「ガンバの冒険」とか、「妖怪人間ベム」とか、あのノリね。

わかりやすい歌詞にわかりやすいメロディーライン、しかしオカズの部分でそれを子供っぽくしないつーのがリクオの「リクオらしさ」なんだな。

これってねー、コミュニケーションの基本手法なのよ。人間は言葉を主にして他者とコミュニケーションする。言葉が主ってーのは、言葉以外に身振りや表情や臭いやそういったものでもコミュニケートしてるんだけど、それらはあまり意識の上に昇ることはない。やはり意識するのは言葉で、その比重は大きいっていう意味。

で、その言葉だが、「リンゴ」っていえば互いの頭の中に同じリンゴの形がイメージされていないと「通じない」わけ。名詞だとこれは解りやすいのだが、気持ちとかそういった形がないものの場合は難しい。

よく、「ツーカーでわかりあえる」なんて表現があるけど、それは生活空間が重なっていて同じものを見て、同じことをしてなんて重なる部分が多いと、同じイメージが頭に浮かびやすいから、通じやすいってことだ。

ところが、同じイメージの摺り合わせがないのに情報だけをバンバン発信してくる人がたまにいる。なんか会話が疲れるとういうのはそういう場合だ。

音楽でもそう。なんか聞いてて疲れる場合は、その音楽がいわゆる「プッシー」なんだな。「私はこう思うから、そう思えっ!」って言われている感じなんだな。

リクオは、全然疲れない。そこが彼のローリングピアノマンとしての魅力で、誰からも愛される音の秘密なんだなと思った。

今回のライブのオープニングアクトに出ていた高満洋子っておねーちゃん。なんかチラシつくるときの写真が着物で遠い目をした感じで写っていたのでアバンギャルドな感じかと思っていたのだが、なかなか笑顔がかわいいおねーちゃんだった。

で、彼女の「盲目のカラス」って曲がすげーのよ。ちと鳥肌がたった。なんでもNHKのドキュメンタリー番組「不屈の者たちへ」の主題歌に起用されているらしい。スキャットっていうか歌詞のない楽曲なんだが、なんだろうかこの感覚は。

ちと難解な表現をするなら、自分が死ぬ瞬間から今生きている自分を見ている感じ。今から未来の自分を想像するってーのが普段の感覚なんだろうけど、そうじゃなくって未来の死にゆく自分の回想としての自己象。

盲目の鴉といえば日本画家の加山又造だが、その絵にインスパイアされた曲なんだろうか?ちとワシ的には要チェックだ。彼女のCD売ってたんで買おうと思ったら、金もってきてなかったんで買えなかった。

※貼り付けた動画はユーチューブで流れていた高満洋子の心のキレイって曲。盲目のカラスはなかった。

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2008年12月 3日 (水)

大衆は責任感のない物語を語りはじめる…

規制はなぜ人を「いじめる…」なんてことを書いた次の日に「三浦元社長が自殺」というニュースが流れてきた。

マスコミはニュースをショーにしたけど、この事件はその代表みたいなもんだよな。今でも、「三浦元社長」なんていうよくわからない称号が、誰が言い出したのか知らんが便利な表現として各社が使っていたりするのが興味深い。

豊田商事の社長が報道陣が群がる中で殺されたり、オーム真理教や、白装束のパナウェーブや、それらのニュースを見るたびにワシの頭の中ではこの疑惑の銃弾がどこかで重なっていたような気がする。

三浦氏も一時はそういったマスコミを挑発するように、週刊プレイボーイ、いや、月間のGOROだったかな?で「悪の人生相談」みたいな連載をしていて、読者の悩みに「君はまだまだ本物のワルじゃないな」みたいな返答をしていて、読者のほうも「三浦の兄貴、聞いてくれよ…」と、どこか演じているところがあったりして、ワシはそのステレオタイプなところが面白かった。

今回の自殺ニュースで、やっぱし黒だったんだという人がいたけど、その意見を聞いて、そうかと思った。疑惑の銃弾のキーワードはマスコミっていうよりも、大衆だったんだな。

豊田商事やオームやパナウェーブ、それらのニュースを見るときに感じだどこか気味の悪いところは、マスコミのカメラを通した大衆の目の気味悪さだ。

前回書いた規制はなぜ人をいじめるのか?で、ワシは「将来起こるかもしれない事態に備えて前もって規制する」ということと「因果律」の問題について書いた。規制は疑わしいものは前もって封じ込めるというのが危機管理なのに対し、司法は原則「疑わしきは罰せず」になっている。

これは、疑わしいものを罰していては、それこそ誰も彼もが犯罪を犯す可能性を秘めているわけだから、事件があった半径何メートルかの人間は皆、罪人になってしまう。だから、自白か確実な証拠がなければ犯罪にはならないわけだ。

ところが、大衆の目はそうではない。疑わしいものは疑わしい。またその疑わしさには確たる因果関係なんてもんは存在せず、そこにあるのは責任感のないゆるい空気だけだったりする。
「自殺した」イコール「バレそうだったから自殺した」だから「やっぱりそうだったんだ」なんていう風に、事実はあやふやなまま、勝手に因果関係がつくられていくわけだ。

生活保護の話も、ちんぴらが生活保護費をかすめとることがおき、そこでまず「うたがってかかる」ということから色んな条件ができあがった。

三浦氏の元社長なんて言い方も、日本では最高裁で無罪だったわけだから、「三浦さん」なわけだが、なぜかいきなり海外で逮捕。「三浦容疑者」とも言えず、かといって「さん」づけも大衆の目からすればやりにくい。そこで考え出されたゆるい言い方が「元社長」なのだろう。

※「大衆は責任感のない物語を語りはじめる…」いあ、責任感がないから物語なのかもしれない。
妄想は妄想を呼び、そこに因果関係という糸ですべての現象を結びつけ、物語は紡ぎ出される。

小説なんかの場合だと物語の作者は、それらの読み手がつくりだした物語の因果関係をひっくり返すような、どんでん返しを用意するから面白いわけだが…。

※はっ!もしかしたら、ニンゲンは物語をつくりだすのがクセになっている動物ではねーだろうか?犬や猫やそのヘンの鳥や魚は物語なんかつくらない。この物語をつくりだすクセが、「王になりたがる」という習性をつくっているんじゃねーだろうか?そんでもって、そんでもって、もしかしたら物語がうまくつくれない奴が、それでもなんとか物語をつくろうとして、生物としての整合性がとれなくなってきているんではねーだろうか?

※集団で妄想を共有するという現象がある。それは三浦氏が連載していた人生相談をもっとスケールを大きくしたみたいなものだ。集団で見る妄想…それは、意識せずに「くちぐるま」を合わせる無意識下の嘘という言い方もできる。ある種のオカルトはそういった現象ではないかと最近のワシは思い始めているが、この集団妄想は生物が群れにいたる本能(スタンドアローンコンプレックス)が、ニンゲンという社会の特異性によって歪められて発症したものではないだろうか?

ワシは、そんな風な「物語」を考えはじめ、人は何故狂うのか?ということにある仮説を感じ、そして背筋が寒くなるのだった。

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2008年12月 2日 (火)

幸運と不運を「抜き出す」作用

さて、今月はリハビリのつもりで毎日ミクシイを更新するキャンペーンを宣言したが、うはうは、結構大変だったりする。けどねぇ、昔はこれぐらいの文章量は屁のカッパだったのだ。体力が衰えているのか?脳が衰えているのか?いずれにせよ書くべきことはいくらでもあるし、定期的に頭の外に出しておかないとダメな気がするのだが、「文章にする」という作業がたいへんなのにゃ。

いつの頃からか、ワシは頭の中に川が流れていることに気がついた。たぶん子供の頃、小学校にあがるかあがらないかの頃だ。頭の中の川にはビュジュアルが脈絡もなくただ流れている。そのビュジュアルは普段は互いに何の関係性も持たない。

たとえていうなら、適当に辞書をパッとめくってそこに書いてある文字のようなものだ。それらがただ流れている。

それが何かのテーマを意識すると、そのテーマに沿ったビジュアルがスポットされ集まってくる。

それを並び替え、なにかストーリーを作りだしキーボードで打ち込む。その作業自体が大変なのだ。

今日は朝から気分が悪いことが重なった。具体的にそれを書けないところがミクシイの始末の悪いところだが、ま。気分が悪いことが朝起きたとたんにあって、そこから今日の1日が始まったのだ。

だもんだから、気分が悪いことが1日続く。ようやく夜になり風呂に入り、今日はさんざんな1日だったなとぼやきながら、ウォーフの腹に頭を突っ込み寝る。

さて?この日ワシはなにかついてない日だったのかと思う。占いは知らんが今日はよくない日だったのだろうか?ロールバックしてみる。いや、気分が悪いことはたしかに多かったかもしれないが、気分がいいこともたしかにあった。熟した柿をもらった。仕事が1個はいってきた。気分が悪いことの一つの道で確認もせずに車のドアを開けやがる奴がいて、あやうく事故りそうになったが、考えてみれば寸前で交わせたのは「いいこと」でもある。

これも、ワシの頭の中に流れる川から、テーマを意識すると集まってくるビジュアルに似てるじゃねーか。

つまり、出来事は山のようにあるのである。1日24時間分の出来事の中から、意識でスポットを当てているに過ぎない。ワシは朝一番に気分の悪いことに遭遇したから、24時間の中から、気分の悪いことにスポットを当てて「抜き出していた」のである。

よくビジネス書や、スピリチュアル系の本とかで、「意識すると願いがかなう」っていうのがあってそれがなにか魔法のように書かれていたり、中にはいかがわしさ満載のものもあるが、浪漫のない書き方をすれば、ワシの今日の1日みたいなことだ。つまり引き寄せたのではなくて、スポットを当てただけに過ぎないんじゃねーかの?

そういえば、この前興味深いことがあって、それをヒントに最近宇宙人にあったとか、宇宙人の声が聞こえたとか、中には自分は宇宙人だとか、次元上昇だとか、予言だとか言う人が増えてきた現象を解明するに至った。この話は、差し支えがあるからまたほとぼりが冷めてから書くことにしたい。

いずれにせよ、ワシらは肉体を通して世界のあらゆるところとつながっている。まさしく「世界」だ。その世界の中から何をチョイスするかは意識というスポットによるとこが大きいのだ。世界は達観すれば川のように流れ、現実の生活をすればまたたくまに現象として抜き出せるものなのである。

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2008年11月21日 (金)

神はナマケモノを創りたもうた

ナマケモノというと、あのコアラに似た動物だが、働きものの代表といえば、アリさんだろう。
アリさんは見事な社会をつくっていて、せっせと汗を流して働いているかのようだが、昆虫学者に言わせるとそのアリの社会の中でも何割かは仕事をせずにウロウロしている奴らがいるらしい。

この前、そんな話をしていたら「蜂もそうらしいよ」と誰かが言っていた。アリがいつのまにか蜂に変わったのか、本当にアリも蜂も何割かは何もしないさぼってる奴がいるかは知らんが、いずれにしても面白い話だ。

昔、ワシがつくっていた「FREAKS」という雑誌の副編集長は、なぜか副編集長という肩書きだが、実際はなーんにもしない人で、本職はパチンコ屋をスポンサーに持つ会社の社長で、これまた本職の方もなーんにしない会社だった。

どうして金を稼いでいるのかといえば、パチンコ屋にたばこを卸していたり、従業員の保険を取り扱ったりしているのでなーんにもしなくても金は入るらしいのだ。毎朝、コーヒーを飲みながら新聞全紙や雑誌から気になる記事を切り抜き、それに飽きたらブラブラと町を徘徊し、新しい店ができたら覗きしているのである。

本人曰く、「これが仕事」なのだそうだ。当時ワシは金がなくて暇はあって、いあ、それは今もあんまり変わっていないが、いあ、今は金がなくて暇もないが…あううう…そんな副編集長をうらやましく思っていた。

ところがそんな副編集長もたまには忙しいようで、何をしているのかといえば、スポンサーのパチンコ屋が新しく店を出したり、飲食店をOPENさせたりするときには副編集長はそのすべてをプロデユースするのだ。

この時には、普段新聞を切りぬき、町を徘徊している間に蓄積された「感覚」がモノをいう。斬新なアイデアが湯水のように吹き出し、微妙なさじかげんで店を流行らせてしまうわけである。

最近は、その会社も辞めてふつうの「労働者」をして、夜な夜な酒をくらいながら懐かしのオールディーズのLPレコードを聴きながら世の中を達観しているのだと風の噂に聞いた。

アリさんの何割かはブラブラしているという話を聞くたびにワシの頭の中でこの副編集長の顔が浮かび上がる。

たぶん社会には、こういった達観できる立場に身をおく者が何割かは必要なんじゃないだろうか?精密であらねばならない宇宙船のねじにも「遊び」の部分が必要なように、社会にも「遊び」の部分が必要なのだろう。

そしてこの「遊び」の部分があるがゆえに、「多様性」という未来が目の前に広がるのだろう。

※と、いいながら実は今、ワシは働きアリさん状態だったりする。あまりにも暇なので先月はスクランブルで「仕事しまっせ!キャンペーン」のロゴをつくり「宣言」をしたので今月はまるでダムが決壊したかのごとくだ。つーかこれが普通なのだが…。

ワシの仕事はバトンリレーに似ている。最初のランナーはクライアント、何をどうしたいかをワシに伝え、ワシはそのバトンを持って制作し、次のランナーである印刷屋とか、外注業者に渡す。ワシは第2ランナーでもあり、進捗状況を監視する監督でもあるのだが、いかんせん第1ランナーが遅いことは常なのだ。

普通にいけばそんなにバタバタすることのないように計画を練っているのだが、第1ランナーの遅れはワシが取り戻さねばならない。この状態では飯を食う間すらない場合が多くて、ここでもワシは「遊び」の必要性を痛感するのだが、この遊びのない分リスクが高くなることは、賃金にはほとんど反映されないのが現状だ。

このバトンリレー的なワークスタイルは、どのような業種であっても変わらないと思うのだが、なぜか、どんな業種でもトラフィックジャムが生じる。はて?それは何が原因か?誰が高速道路で時速30kで走っているのか?世の中を停滞させる主な時速30kの奴のことは、また時間があるときに検証したい。

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2008年8月10日 (日)

夏はややこしい季節だ。

でかけようと思うのだが、雷雨がありそうなのでどしたもんかと思案中。洗濯物はまた洗えばいいし、2階を締め切っておけばサンルームみたいだし、問題はワンコ。なぜか犬は年をとると雷や花火が嫌いになるようだ。

まるで漫画のようにブルブルふるえる。発電できないかと思うぐらいブルブルふるえる。雨漏りしたかと思うぐらいヨダレを垂らす。ワシのカラダでロッククライミングをしているかのようによじ登ってくる。

だからなかなか出かけられないし、空に雷雲が見えたらすぐに帰るようにしている。

昼は雷、夜はガキんちょがする花火、蚊がでるのでフィラリアの薬、ダニがでるのでフロントライン。毛が舞い、ダニが沸きそうだから丁寧にダイソンをかけ、布団を干し、クーラーでやられないように厚着をするもんだからTシャツは数回お着替え。毎日洗濯、除草剤は使わないから庭の草はすぐに伸び、ムカデにゲジゲジ、ありんこに例のゴ●●●(←奴の名は禁句だ)。蜂が羽音を立てて飛べば、以前さされたことがあるらしいエースがびびって2階にかけあがる。そのありさまを見て、ヤクザ犬が興奮し、それを見ていてケイちゃんが遠吠えをする。

夏はややこしい季節だ。

夏がややこしいと思えば思うほど冬が恋しくなるので、夏の楽しいことを考えようと思った。

うーん、おねちゃんが薄着になる?しかし、薄着になったらからといってそーなのだといく気もする。つか、最近は冬でも薄着のねーちゃんはたくさんいるし、どちかというと秋や冬のほうがブーツ度が高いのでワシ的にはそのほうが嬉しい。薄着よかブーツ!

海?つか、いかねーし、夏でも厚着のワシは肌を焼くことがないので真っ白。これでは海にはいけない。水着のおねちゃんがたくさんいるから目線のやり場に困るし、犬が波際でたわむれる写真を撮りたいが、カメラもってウロウロしてたらアブナイ感じなので人がいない海にしかいかないし…。

祭り?だいたい祭りの日は炎天下でMCしてることが多いから…。

うーむ、夏に楽しいことは思いつかない。が、たぶんこのややこしいことが楽しいのだと思う。

ジンセーはウェイトの重さに比例して楽しい。これはビリーズブートキャンプが楽しいのと似ている。

つまり困難なことをクリアした快感。これがあるから誰にほめられることがなくてもドラゴンクエストに皆はまったのだ。
モチベーションの最高の甘露はこの「自分で自分をほめる」というところにある。

が、最近はこの自分で自分をほめることができない人が増えてきている。ま、これはまた今度かこーっと。とりあえず、雷雲は消え去ったようなので今のうちにおでかけ!

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動かない

基本的にヒトは動かない。それがどんなに立派な大儀名文がついていようと、どんなに利益があることであろうと、どんなに気持ちがいいことであろうとだ。ヒトは基本的に動かない。

これは坂道に居座る大きな岩にたとえられる。いくら押しても少しも動かない。押し続けていても微動だにしないどころか反作用でかたくなに動かなくなる。

そゆときはね、何回もトライするのだ。やがて岩はようやく少しゆれはじめ、そしてそのゆれがある閾値を超えたときに大きな岩は動き出す。

動き出すと今まで動かなかったのがウソのように勢いがついて自ら転がり始めるのだ。

なんでそうなのかは知らん。が、経験上そゆものなのね。

ちなみに閾値とは、あるラインを超えたときに急に効果が現れることを言う。

ワシはこの「ヒトは動かない」ことを知っているから、たとえばなにか仕事で企画をしてもその企画を捨てたりしない。改善はするものの、まだ閾値を超えていないんだと考える。

たとえば、ワシがスタートレックにでてくるレプリケーターを開発したとしよう。レプロケーターとは、質量から何でも創り出すことができる装置だ。これがあれば何でも好きなものがつくりだすことができる。誰もが手ににたいと思う装置だ。

しゃて、このレプリケーターを広めるにはどうしたらいいか?こんな誰もがほしがる夢のような装置ではあるが、それを広めるには「営業」をしたり「広告宣伝」をするしかないのだ。どんな夢の装置であろうが「誰も知らなければ、無いのと同じ」だからだ。こんな未来の装置ではあるが、古典的なヒトをあってその装置のすばらしさを伝えるというアナログなことしかそれを広める方法はないのだ。

たとえYahooのオークションに、無料で出品したところでなにかの冗談だと思われておしまいなのだ。

ヒトとあって根気強く説明をし、そして得られるのは商品のすばらしさでもそれがもたらす利益でもなく、まず「信用」が得られる。その信用の上にはじめて商品のすばらしさやもたらす利益が自分以外のニンゲンの頭の中にイメージできるのである。

ヒトは基本的に動かない。だからワシは楽はしない。こちらから動くしかないのだ。

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夏の日

毎年夏になると同じこと言っているんだが、クーラーである。
昨日は長時間クーラーの中にいて、体が冷えてしまったてたんで今日は鼻がグズグズなのだ。にゃんか熱っぽいかんじもする~。

う~ん、テレビや新聞を見たらエコエコエコエコエコ…エコエコアザラクなのだが、どこにいってもこれでもかとクーラーが効いていて、まさしく「この温度差は何だ?」という感じだ。

周りを見てもクーラーにやられたヒトは多い。こんなに皆で寒い寒いといいながらクーラーが効いているのはどゆことなんだろう?

近所のれんばい市場では、7月からレジ袋が有料化になり、足は遠のいてしまった。仕事の帰りにふらりと立ち寄る気が失せるのだ。ワシ的にはレジ袋よりも食品トレーがじゃまで仕方ないのだが、それについてはエコの範囲外らしい。

ユーチューブでは、温暖化のウソを暴くとかいう海外メディアが放送した番組に誰かが日本語訳をつけていて、それがネットで話題になっているようだが、ふふん…。踊るアホウに見るアホウ…温暖化がウソであろうがCO2排出権という新たなマーケットを創り出すものであろうが、いずれにせよ肯定派否定派、どちらも踊るアホウな気がする。

そんなワケで非常に機嫌がよろしくないので、こんな日は外部との接触を遮断するに限る。BOSEのヘドホンはそんな時に最適のグッズだ。スイッチを入れると外部の音をなにやら聞こえない音で中和するらしい。たしかに音が「消える」。それは静かというより吸い込まれそうな深淵といったほうがぴったりだ。

で、伊藤君子を聞きながら、珈琲を飲み、葉巻を吸う。そして、スピーカーでは聞き取れない音、BOSEでしか再生できない音を丁寧に聞く。

こんな時、ワシは自分の頭の中にわき上がる想念にウェイトをかけない。今日はもし自分がなにかの事故か病気で目が突然見えなくなったらどうしょうかという不安なことを考え続けた。

世の中にはエコバカと同じく、ポジティブシンキングバカが山のようにいて、そういったネガティブなことを考えるのはよくないとか言うのだが、ワシはそうは思わない。生きていくのにはネガティブな考えは必要不可欠だ。阪神淡路大震災の時にこのヘンのニンゲンはそれを学んだのではなかったのか?

考えただけでも恐ろしいことを考え続ける。その先に見えてくるのは明るい希望だ。季節が回るように、夜と昼が回るように、ヒトの思考も回らなければ明日は来ないとワシは思う。居心地のいい場に永遠にとどまりたいのは本能でもあるが、明日を夢見るのもまた本能なのだ。

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びわの木の下で

前の事務所には屋根より高い大きなびわの木が3本もあって、実が売るほ
どなっていた。高いところの実は、大きな鳥が食べにくる。中ぐらいの枝になる実は小さな鳥が食べにくる。地面に落ちた実は、虫が食べにくる。びわの木1本だけでも実に多くの生き物がその恩恵に授かっているのだ。もちろんワシも食べる。葉っぱは、お茶にもできる。

新しい事務所にもびわの木がある。前の事務所ほどの大木ではないが、今実がてんこもりだ。高枝切りばさみが錆び付いてつかえないので、手でとれる範囲の実をむしり、その場で食べる。毎朝食べる。

ワシの朝食はキッチンではなく、びわの木の下だ。実を食べて、その木の下でコーヒーを飲んで新聞を広げる。土間では洗濯機がゴトゴト音を立てていて、空は青い。犬は庭でなにやら土をほじくり、猫は塀の上でびわの実をとりにくる鳥を見ている。この朝の瞬間がワシには最高のピーク体験だ。

んが!新聞には暗雲立ちこめる記事がオンパレードだ。家族を皆殺しにしたニュースや、保険料があがって問い合わせが殺到しているやら、自殺者が過去最高だとか、プレカリアートがなんとかとか。思うにどーも最近は「生活すること」すら難しくなってきているんではねーかの?

今だ加古川あたりでは、日本全国民総中流時代をひきづっているかのように平和な空気が蔓延しているが、実はそんなものは見せかけで、白ありに喰われた家のように土台は腐り、いつたおれてもおかしくないような状態になっているんじゃんねーかの?

実際、ワシの回りを見回してみても、皆なんとか喰ってるやつばかりで、幸いなことに加古川は田舎なので実家が近くにあったり資産があったりでなんとかなっているようだが、地元の金は都会に流れ、どんどん地元には金がなくなってきているような気がする。

新聞を読んでいて気が重くなってきたので、読むのをやめる。地面には落ちたびわの実が甘酸っぱい香りを発散させている。そこにアリやら、ハエやら、なんか名前もしらん羽虫がたかっていて、掃除をしたほうがいいのだろうが、ま、この虫たちも何かの役にはたっているのだろう。

この前、畑をやってる人に聞いたところによると、レタスなんかでも収穫してもすぐに傷んでしまうのでどんどん捨てていくそうだ。その量たるやこの地面に落ちているびわの比ではない。

コンビニの弁当なんかもそうで、売れ残り次の便で新しい弁当が届くときには大量の生ゴミになる。コンビニ経営者は毎日弁当を食うことになり、最初は歓んでいた経営者の子どももさすがに弁当は見るのも嫌だという話だ。

捨てられる食料をなんとかしようというNPOなんかもあるが、基本的にこれらのゴミは価格を維持するためにゴミとしてしか処理できない。傷む前のレタスであろうが、それが市場にでたら、詳しくは知らんがたしかに価格破壊がおこるだろうということは想像できる。

今、ワシの冷蔵庫と冷凍庫にはタマネギがてんこもりだ。刻んで冷凍してもまだ余り、軒につるせばタマネギ大好きなワシの天敵であるゴ●●●(←奴の名を書くのも汚らわしい!奴らは、地球外からきた生物で地球の食物連鎖を破壊するエイリアンだ!)を呼び寄せることになりかねないので冷蔵庫の中に保存している。

このタマネギ。生産している人からのいだたきものなのだが、いただきものとしてしか存在できない食い物なのだ。これらの過剰なものは流通にのることはできない。

はて?日本の食料自給率がどーのこーのというのだが、これらの過剰なものをなんとかしたりはできねーものだろうか?あんまし、そういった企画やアイデアを聞かないんもはなんでなんかの?

食肉関係なんかもそうだが、このあたりを詳細に調べ上げていけば、なにやらいかがわしい話になってくる。

ふん!結局はそーゆーことか。金なんつーもんが実はワシらの生きにくさを根本的に作りだしている。ワシはますますその考えに確信を深めるのであった。

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この世の全部を敵に回して

めったに本を読まないというよりは、読んでたまるか!といったほうが正確なワシなのだ。小説はその限りではないが、学術的なものや、哲学や思想書なんかはまさしく読んでたまるか!で、そこに自分が今テーマとして置いている問題のヒントならまだいいが、答えめいたものが書いてあると嫌なのだ。

だもんだからワシの本棚にある本はやたらめったら綺麗なのだ。ではにゃんで本を買うのか?そりはね、本は今気が付いたときに買っておかないと、すぐになくなっちゃうから。ベストセラーなら発行部数は多いが、それ以外はミニコミ雑誌並の部数しかでていないことも少なくない。あっこれは!と思った時に手にいれておかないと、後で探し回るはめになるからだ。

そういう意味でワシの本棚には読まれていない雑誌もたくさんある。とくに雑誌はね。古本屋でも手にはいりにくい。

この前本屋で見かけた本。1000円と安かったのと帯に書かれた「21世紀の太宰」というコピーにパラパラと開いてみたら、そこに気になる言葉を見つけた。

「永遠に生きる魂にとって私という観念は無意味である…」

ぬおおお、これだ!ワシが捜していたワードはこれなのだ。にゃるほど、この作者は「魂が永遠であるという仮定において私ということを意味解いた。ワシはその仮定をつけたことがなかったからこのワードに行き着けなかっただ。

さっそく買ってみた。買ってみたはいいが、もちろん読んでたまるか!

本を読まずにワシは魂が永遠であるという仮定の中、さまざまなシュミレーションをしてみる。魂が永遠なら、はて?ワシは何を思い何をするか?

ニンゲンは、ある意味思考するプロセッサーで、なにか情報をインプットすることでオリジナルのものがアウトプットされる。これが「編集」という作業なのだが、ワシの特性のひとつとしてこの編集能力が体に備わっている。インプットすればあとは、体が勝手にいろんなことを考えてくれる。あとはアウトプットを待つだけで電子レンジのチン!みたいなものだ。

チン!できあがったみたいだ。1週間ほどかかった。その間脳は忙しいからミクシイも、書いてなかった。

このチンでできあがったものは、ながーい話なのでまた書くけど、チンしてもんだから本を読む。一気に読み上げた。本のタイトルは「この世の全部を敵にまわして」。

その本の最後にこんな事が書かれていた。

あなたがあなたの中にある真実の哀れみをよみがえらせるだけで、この世界に仕込まれた憎むべきプログラム、貧困、暴力、戦争、差別、迫害、狂信などが無力化できることをあなたはもっと強く自覚しなくてはならない…

ふふん…おそらくはこの自覚こそが生物が「私」としてうまれでる理由なのだ。そしてその自覚こそが未来を繋いでいくのだろう。

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インタラクティブな関係から開く世界

今から10年以上も前になる。新しく買ったワープロでピーガガガーとモデムでニフティのフォーラムにつないだのが、最初。
ワシはその時、ネットというものに初めてふれたのだった。宗教フォーラムなんかにハンドルネームで書き込んでみたら、その反論なんかがあって、すごく楽しかった。そこには地方都市に住んでいたらなかなかできない議論の場があったからだ。

その頃、ワシはネットで世界は変わると信じていたし、その可能性にわくわくしていた。実際、世界中のコンピュータをつないで天体の計算をしようというプロジェクトや、今のウィキペディアのような皆の知識をシェアリングする仕組みなんかが、語られ計画されていた。

パソコンを買ってからは、犬関係のメーリングリストにはまった。犬を飼ってるという共通の体験から広がる話題は、犬の話題だけにとどまらず、社会のありかたから、文学論や哲学にまで広がる。

こういった「つながる」しくみがあったら、加古川もおもしろいと思った。

地方の問題のひとつとして人材の流失というのがある。それは加古川では自分の思うような仕事がないとか、マーケットの規模の問題というのもたしかにあるだろうが、なによりも「つながり」が少ないというのがある。

ネットであれば、距離も時間も関係ない。家で引きこもっているやつも、仕事で忙しくてたまらんというやつも、寝たきりのやつも、パソコンさえあれば会議にも参加できるし、時間を関係なく意見を出せる。

加古川の某団体が言う「会議に参加できないものの意見は無いことにする」こともなく、今度市長選に立候補する予定のあの人が言う「ボランティアに参加できるものこそが郷土心をもっているのだ」というまちづくりの特権意識も消え失せる。

誰もが同じ条件で「つながる」ことができるのだ。そう思っていた。

数年前に加古川青年会議所が、ネットでする市民会議というのをテーマの講演を企画したことがある。会場に擬似的なネット環境をつくり、テーマにそってパソコンや携帯メールで意見を集約するという試みをワークショップとして行っていた。また、全国的にそういった試みの成功事例をいうのを紹介もしていた。

しかし、実際その成功事例をみても僕が参加していた犬関係のメーリングリストのほうがはるかに活発だったし、2ちゃんねるの書き込みのほうが具体的なアクションにはつながったりする。しくみがあっても誰も参加しなければ意味はないのだ。

さて、今はweb2.0とか言われている。もっとインタラクティブ(※)に、つまり双方向にネットを利用しようという意味だ。ピーガガガーとパソコン通信をしていた古株の連中はこれに首をかしげる。「いや、もともとそういったものだったんではないの?」というわけだが、たしかにネットは、そうであったはずなのだ。

つまり、こういうことだ。

ITでもなんでもそうであるけど、活性化するには「しくみ」づくりはもちろん当たり前。だが、しくみづくりよりもまず最初に、参加する者個々のモチベーションありきだということ。

犬のメーリングが活発だったのは、皆が同じ問題を抱えていたということだ。しつけの問題や、社会的な問題、それぞれが何か意見を持っていたし、何かを学ぼうとしていた。そんな個々を、「誰でも参加できる」というネットのしくみが、「つなげた」のだ。

多くの人がインタラクティブに「つながる」ことができても、そのつながる「個」が脆弱だとたんなる「お友達ごっこ」にしかならない。ネットが普及してもワシが最初に夢みたように世界が大きく変わることがなかったのはこのためだ。

やはり、世の中を大きく変えるモチベーションは「楽しい」ことでも「気持ちいい」ことでもなく、ましてや個人の問題や自己実現を公共にふりまくことではない。世の中をかえる根源的なエネルギーは「恨み」なんだということをワシはふたたび体感している。

(※)ワシはことあるごとに「インタラクティブ」ということを言う。これは「双方向」とでも訳せばいいのだろか?この概念が加古川あたりではなかなか理解されない。

押しつけることはインタラクティブではない。また互いの欠点をなめあう助け合いというものではないし、だれかの欠点を誰かが補うものでもない。

互いをリスペクトし、お互いの特性でコラボレーションすることで時間をすすめていくこと。互いの存在が互いのベクトルに影響を及ぼすことだ。

この概念が理解しずらいのも無理はないなと最近は感じている。圧倒的人工の少ない町ではこういったインタラクティブな関係を体感したことがないのだ。せーくすの気持ちよさを体感したことのない人にその気持ちよさを口で説明するのが無理なのと同じことだ。

しかし、面白いことにロックのライブなんかで、うはうはシャウトした経験を持つものには屁理屈抜きで理解できたりするのである。また、ちゃんとしたボケと突っ込みのできるお笑い芸人なんかもこれを体感で理解できるし、犬とダンスをする人なんかはこのインタラクティブを「ソーンに入る」という表現をする。

はて、このインタラクティブはどうやって構築するものなんだろうか?

天を照らす神が隠れた岩戸の前で神々は宴を行った。
天を照らす神はその宴が気になる少しだけ岩戸から顔を覗かせる。

これは宴が楽しそうだったからでも、興味があったからでもない。
宴がインタラクティブなライブであったからだ。

インタラクティブなライブこそ、世界のすべての未来の種子だからだ。このライブが、天を照らす神を呼び寄せたのであろう。神も人も動物も植物も、ここから時間を創り出したのだ。

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アホの定義

鶴さんにとってのアホの定義は何か?というアホな質問を受けた。ワシにとってでなくても、アホの定義は決まってるのではねーかと思うのだが、最近は人に親切なワシなので丁寧に答える。

「古今東西、アホとは何故?を考えない人のことを指すのにゃ。

たとえばワシの犬。いついかなるときでも何かを憶えるということに無条件な喜びを感じているようなのねん。

これは生物全般に言える喜びのようで、つまり何かを憶える、スキルがアップするということはその個体にとっての可能性が広がるからなのだね。だから本能的にそこに喜びを感じるようにでけているのにゃ。

ワシが地域検定とかに反対なのも、それがパロディの域ならまだしも真剣に試験で郷土の知識の多さを計ろうというなら、その本能的な喜びが、試験に受かるという目的にすりかわってしまうからなのねん。

本来、好奇心というのはは可能性の追求であり、そのために勉強したり体験を重ねたりするわけだけど、どゆわけかニンゲンの場合はその好奇心すら持たない奴が増えてきて、結果自分でなーんにも知ろうとせず、なーんにも調べたりせず、なーんにもしないクセに、自分がやりたいことだけを口にし、まるで親鳥がエサを口元にまで運んでくれるかのように、夢をくで!だの目標がどうだのとピーチクパークチ言ってるわけぇ。

なんでそーなったかってのもあるんだけど?聞く?」

アホな質問をしたやつは、もー質問をしたい気持ちが失せたようだった。

ちなみに関西圏のアホとバカ、関東圏のアホとバカはニュアンス的に逆のような気がするのにゃ。

バカというと「空手バカ一代」で大山マスカクが、空手の修行で山にこもり、山を降りたい自分の気持ちにウエイトをかけるべく片方の眉をそりおとし鏡を見て、「ガハハハハ、これはバカの面だ!こんなバカの面では人前になんか出られない」と再び山での修行を続けるというシーンを思い浮かべる。

大山マスカクは、そうして天下のマスカクになったのであるが、うむ、たしかに勉強やスキルアップはマスカク同質のものだ。なんてったって、自分で自分を褒めるというとこに喜びを持たないとモチベーションあがらんからね。ふふん。

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空の気と書いて空気、活きる気と書いて活気、そして呑気…。

例の「テーブルのきたないとこ」から仕事の依頼がまたあった。どーやら、気に入られたようだ。打ち合わせにいくと、すげー咳をしておられる。うーむ。今度は風邪でもうつされたらマズイと強力な空気清浄機がほしくなった。事務所の空気を一気に入れ換えることができるような強力なやつ。

ヒトは風邪にかかると咳をする。ま、つまりは空気の入れ替えなんだな。空間も同じことだ。空気の入れ換えは重要なのだ。

で、電気やさんに見にいく。

加古川の店舗は、土日はガキが走り回る無法地帯になる。どこの町でも同じようなものだが、駅前にジャージでいける町なのでその割合は、ほかの町をはるかに凌駕する。駅前であろうが、どこであろうが自分の家と同じ感覚でいられるからそこには公共意識なんてもんは微塵もない。

だもんだから、ワシは土日は買い物にはいかないようにしているのだが、うっかり今日が土曜日だということを忘れていた。

しかし、その電気やにはヒトがあまりいないのである。複合店舗の他の店はヒトがそこそこいるのに、電気やだけが閑散としていた。

はて?なんだろうと思ったが、これ幸いに空気清浄機やらダイソンのハンディクリーナーやら、ソファやらラグやら、かたっぱしから物色するワシなのである。

なんつーても、ワシは電化製品フェチだ。ま、いろんな商品を見ておくことは仕事にも活きるというのは言い訳で、単に近所のお手軽な商品展示の見本市、最新電化製品ミュージアムなのだ。

走り回ることこそしないが、かたっぱしから手にとって見る。まるでガキである。なぜか冷蔵庫はドアを開けてみる。ドアを開けて見てもなにも得る情報はないのは解っているが、とりあえず冷蔵庫や洗濯機のドアはニンゲンの本能なので開ける。

そんな楽しい時間を過ごしていたら、店員がすっとんできて「なにかお探しものですか」と非常に態度のよろしくない雰囲気でちかずいてきた。どーも、今日はなにかの日らしくて、ところどころにお偉いさんのようなヒトが立っている。普段は鼻くそを
ほじくって立ってるだけの店員が多い電気やなのだが、今日はお偉いさんの手前、ポーズで話しかけているようだ。

ああ、なるほど、だからヒトがいないんだ。ワシは一瞬でそう悟った。

客にウザイと思われないように、かつ客が何か疑問をもったときには即座に答えられる位置にいる。店員に一番求められるスキルはこれだ。

が、普段からそういった接客をしていないからスキルは積み上げらてはいないのだ。だから、「何かお探しですか?」というセリフの裏に、「買いもしやがらねーのに商品べたべた触るなよ」という言葉にならない声がでてしまう。

だから、ヒトが寄りつかない。

昔と違い世の中には商品が溢れている。必要最低限のものはもうすでに家の中にあるし、ネットやテレビなどの通販なら商品情報はピンポイントで調べることができる。値段も店舗をかまえてない場合はかなり安い。しかし、それでも近所の電気やに出向くのは、実際に目でみることができて楽しむことができるからだ。まさしく無料のミュージアムなのだ。

そのエンターティメントの延長に購買はあるのである。

太古の昔、ヒトは集まるところには「市」がたった。これが店舗の起源であるというコンサルなんかもいるがワシはそうは言わない。ヒトが集まる場所にたった「市」は、購買というよりはトレードの市だ。生活に必要不可欠なモノならこのトレードの市としての売り方でもかまわないだろうが、今の時代はそうではない。

ワシは店舗の起源は市ではなく、祭りの縁日だと言う。さして必要でもないものを客は購買するということでエンターティメントの参加者として機能する。ヴィレッジバンガードの商品説明のPOPや、デパートのイベントなんかもその一環だろう。もちろんそこにはセンスという「見せる気持ち」が必要であるが、基本はバナナのたたき売りやガマの油売りと同じく、参加型なのだ。

店員に声をかけられ、とたんにつまんなくなったワシは早々と店を後にした。家に帰る途中に老舗の商店街の中を通ったが、別に必要なものはなかったので立ち寄りもしなかった。ある店の店主が暇そうに通りをいくヒトを店先でぼーっと眺めていた。

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インタラクティブラブ

精神分析のフロイトが神経症が発症するメカニズムとして不安と抑圧の関連を言っていてなかなか面白い。

フロイトの考え方なんかは、どちかというとワシの言うところの「ケモノの神」「ケモノの理(ことわり)」に近いんじゃねーかと思う。

フロイトは言う。

「性欲を一種の生命力と捉え、生殖行為が何らかの事情・理由で正常になされなかった場合、その際消費されるはずであった性欲が解消されることなく無意識の内に蓄えられ、そのような充足されず変質させられたエネルギーが<不安>として表出される」(ウィキより)

またフロイトは、不安が抑制(性欲の表出を妨げること)を引き起こす」と言っていて、それは社会的なタブーや良心や理性と欲動がコンフリクトした時、不安という気持ちが発動し、欲動が挫折させられるのだとも言っている。

ま、乱暴に解説しちゃうと、「ウホウホはねーちゃんをウホウホしちゃったら、いやこれは社会的な立場とか、いろいろあってややこしくなるからダメじゃんと思ったときに不安という気持ちが出てきて、萎えちゃうよん」ということらしい。

はて、ワシはここでケモノの理で考える。性欲とは未来を構築する方法論のひとつだ。不安がそれを阻止しようとするなら、不安は何をアラートしているのだろうかということである。

誰かに聞いたか読んだかしたのだが、最近はなにやら夫婦はもちろん、恋人同士でも、セークスというものをあまりしないヒトが多いらすい。また、新聞をはじめとする報道で、痴漢はもちろん、レイプとかの事件が多いようなのも気になる。

もちろんこれは、そういった事件が多いのか?それともそういった報道が増えているのか?あるいはワシがそういった事件の報道を気にしているのか?は解らないのだが、ワシの言うところの「セークスはインタラクティブでないと萌えない」という感覚を誰もが持ち合わせていたら、こういった事件はおきねーだろう。

夫婦や恋人がウホウホするのはあまりまえだのクラッカーだが、そういったことをするよりも「ひとりLOVE」っていうらしいが、マスターベーションをするやつのほうが多いというのもワシのインタラクティブラブ理論(←今、考えたネーミング)からしたら、疑問符がつく。

そういや、環境系の話でもインタラクティブではなくて、誰かが考えたシステムを指示するかしないかの話から前進はしていないような気がしていて、それも「ひとりLOVE」か「インタラクティブラブ」かの違いと構造的には同じだ。

未来は「わたし」と「あなた」の最低2人でつくるもの。未来は「わたし」のコピーペースト、もしくはクローンであってはいけない…というのがワシのケモノの理(ことわり)なのだが、どーもそれを理解しているヒトが少なくなってきているのではないかと思うのだ。

鶏と卵ではないが、このインタラクティブラブがないから、世の中に不安が蔓延しているのか?それとも不安があるからインタラクティブラブがねーのか?

かつて、ジョンレノンとオノヨーコは、二人で全裸で向き合いベッドピースと言った。それは大きなムーブメントになり文化を形成したが、今の時代、ワシはその二人の写真にこうコピーを入れたい。

「ワシが未来をつくるのではない
 アータの未来に乗っかるのでもない
 未来は、ワシとアータが、二人で築きあげるもの
 これがインタラクティブラブ
 生物本来の未来のつくりかただよ」

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2008年6月20日 (金)

世の中が崩壊すればいいという「希望」

辺見庸が神戸新聞に水の透視画法という連載をしている。月2回の連載なのだが、辺見庸の文体はいつもワシに冷や水を浴びせる。

たとえると、喉元に匕首なのだ。匕首(あいくち)とは昔のヤクザ屋さんや、シャブ中が腹巻きの中に隠しもっている短刀のことだ。

人は、自分のいまいる環境を「身の危険がせまっていない限り」安全なのだと思いこむ。これは生物の本能と社会的なものが作用しあってできあがった現代人のいわば安全装置的な心理状態なのだと言うのがワシの仮説だが、辺見庸の文体はこの安全装置を完全にぶちこわすのだ。

この前の連載では「プレカリアートの憂鬱」と題し、こんなことが書かれていた。プレカリアートとは、新自由主義経済下の不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者を総称する最近はやりの造語だ。

辺見庸が彼と出会ったの客員教授として大学で若い奴に「もっと怒れ!この透明なボウフラどもめ!」とハッパをかけていた頃だ。あれから数年して辺見庸は彼に再会する。彼は自分が飼っていたシマリスの死骸がはいった箱を常に持ってあるき、今はプレカリアートなんだという。

広告代理店でサラリーマンをしていた頃に鬱になり、その後職業を転々とし、気がついたら「口をきかずにできる仕事」ばかりを探していたのだという。

彼は辺見庸に2つ質問をした。
「このような時代を経験したことはありますか?」
「今は何に怒ればよいですか?」

辺見は絶句する。
そして「価値観の底が抜けているのに、そうでないようにふるまう世の中ははじめてだな…」。そして彼にプレカリアートは怒らないのか?と問い返した。

彼はシマリスの死骸のはいった箱をなぜながら、「今、自殺多いでしょ。あれって変種のテロじゃないですかね」と言ったのだ。

この前にジョセリーノとかいう予言者のことを書いたが、ワシの年代ではノストラダムスの予言というのが流行った。1999年7の月…ってやつだ。この不吉な予言は実はワシの中では、希望に近いものだった。

若い頃、保護者がいないということで仕事もなく、まさに文字どおり「どこの馬の骨ともわからぬ奴」という社会的なレッテルを貼られていた頃だ。自分が社会の大通りから大きくはずれ、若くしてアンダーウランドな仕事につき、望むわけではないのにアウトローになっているなと思ったとき、ワシはこの予言を希望にしていた。

1999年になにかおきれば、今の社会は完全に反転する。そこには家柄も身分も金も、ワシが生きていくのを阻害するすべてのものが崩壊したとき、ワシは自分の身体だけでワシの価値を構築できる、そう信じた。不吉な予言であるがワシには希望だったのだ。

おそらく、世の中が崩壊すればいいという「希望」は静かに広がっている。そのXデーを待てない奴が自らの命で社会からドロップアウトするというテロを起こしている。

※たばこ1箱1000円時代。ヘビースモーカーのワシでも1箱1000円のたばこはさすがに吸えない。禁煙なんかするつもりはさらさらないが、さうがにこれは高くて吸えない。しかし、考えてみればガソリンなんて必要なものがリッター200円になったら、さまざまなモノが値上がりし、今までの差額の部分で1箱1000円のたばこが吸える計算になる。非常に自虐的な狸の皮算用だが、(狐だっけ?)実は、世の中はもう恐るべし時代になっているのだろう。ただ、感覚だけが今までどおりなのかもしれない。

辺見庸の文体はそこに冷や水を浴びせる。

おそらく、恐るべし時代だと気がついたときには怒ることも、世の中を変えていく方法も実践する気力はなく、ただ空転する変革の希望だけを抱いて、死んでいくのかもしれない。

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ワンコ星人はかくかたりき

きのうワシが河川敷を散歩していたら、空からたまごのような物体が降ってきた。自家用車ぐらいの大きさで、それはワシの頭上をふわふわと漂い、羽のようにふわりと地面に降り立った。

たまごの蓋が開いて中からうちのエースそっくりの動物がでてきた。彼?がいうにはワンコ星からきたワンコ星人だという。

ワンコ星人は、時空間を滑空し地球にやってきたのだという。
ところが、到達した時空間んも地球には知的生命体が存在していなかっただそうだ。そこでワンコ星人はカスケードをたどって知的生命体が存在している時空間まで移動してきて、今この場所にいるのだという。

カスケードとは、ケーキの種類ではなくて、幹だという。

「あー、つまりだな、時間は植物みたいなものなんだ。茎から別の茎が伸びてるじゃん。だから無数の未来が植物の茎のように伸びてるわけ。そのカタチをカスケードって言うんだ」

「じゃ、未来ではニンゲンは滅んでいたわけ?」

「うーむ、ま、未来という概念ではないのが、ま、そう思ってもいいかな?」

「うはうは!やはり温暖化とかで?」

「質問の多い奴だな。温暖化じゃなくてもっと個人的に滅んだんだよ。基本的にあーたたちニンゲンは文明は発達させたが精神的に未熟だったのさ。赤ん坊がカミソリを持つと手を切るだろ。あれと同じだ」

ワンコ星人は、ワシに質問が多い奴だと言いながらも饒舌に喋った。

「なあ、あんた。個人は全体の一部なんだぜ。ニンゲンはそのことに気がつかなかった。まず、その個人の存在と全体の存在の構造に気がつかないと精神は未熟なまま成長はしないんだよ」

「個人なんてもんがなぜ存在したんだと思う?それは可能性としてのカスケードなんだ。個人なんてもんがなくて、全体しかないのだとしたら、カスケードは1本だ。それじゃ未来は構築できない」

「いわば、個人は全体の触手なんだ。いろんな個人が可能性を全方向に模索している。だから、ある個人と別の個人は、全体の一部でありながら別の考えや別の行動をとる」

「あなたとわたしが同じ考えなら、あなたとわたしである必要はない。かといって、あなたとわたしが違う考えでいいのなら、これまた、あなたとわたしである必要はないんだ。その個人と全体のもっとも原始的なことが生殖なんだよ」

「オスとメスがウハウハするようにだ。ニンゲンは自分と他人が交わりカスケードが伸びていくんだ。その行為がなくなったからこそ、あーたの言う未来は滅びた…というよりは正確に言うと消滅したんだな。少子化みたいなもんだな」

ワンコ星人は、ワシのつれている犬に目をやって最後にこういってたまごに乗り込み消えていった。

「あーたがつれてる犬。かれらの種族は、どーやらその全体と個人の構造が理解できているようだ。ふふん、興味深い。わたしは、もすこしカスケードをたどってニンゲンがその全体と個人の構造をいつ忘れてしまったのかを探ることにする。ま、達者で暮らせよ~」

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ベーシックインカム

ひさしぶりにパッケージ屋とあって一言二言喋ったが、連休以降さっぱりと仕事がねーと嘆いていた。この前は印刷屋が同じことを言っていたな。夕方に電話があって、ある飲食の店が暇でさっぱりなんで相談にのってやってほしいという内容だった。

うーむ。どーも連休以降は「凪」状態で金もヒトもモノも全然動いてないようだ。景気が悪いということは、世の中から金がなくなるわけではなく、誰かがため込むことから派生する凪状態のことをいう。

これだけいろんな品物が値上げし、さらに不安要素てんこもりな世の中ではため込む奴は続出だろう。そうすれば経済的体力のない奴から死んでゆく。
経済的体力は会社の規模なんかは関係なく、大きな会社はそれだけ日々のコストがかかるから、体力もなく、ワシのような奴は日々のコストは低いがキャッシュのバックボーンが極端に無いのでやはり体力がない。

まさに兵糧攻め。しかも、誰に攻められているのかもよく解らないというところだ。

ワシは経済的に生存することが担保できなければ個人なんツーモンは精神的にも自立のしようがねーと言ってきた。畑やって自給自足という方法を唱えるヒトもいるだろーが、それはあくまで風来坊な一人モンの言いぐさで、家族という人質がいたらそーもいってられない。特にガキは、やはりヒトの群れの中で矛盾にまみれて育てなければ、社会化なんてできやしねー。

そんなことを言ってたら、この考えは「べーショックインカム」とか言うそうだ。2006年の12月の「現代思想」。特集は「自立を強いられる社会」。この特集に惹かれて買ったのだが、あいかわらず買っただけで読むことはしない。だもんだから新品のように綺麗に本棚に並べてある。

そーっと、開いてみたらあった!いろんな学者センセがベーシックインカムについて書かれておる。「すべてのひとが、その生を営むのに必要なお金を無条件で保証されること」。

ほうほう、これは面白そうだ。財源をどうするかについても言及されている。それによると「働かざるもの喰うべからず」というが、実際財源をどうするのかと聞くやつほど働いてないというとこは、なんかロックを感じた。

実際にこのベーシックインカムをどーするのかは、ワシにはさっぱり解らんが、生存することが担保されることで世の中がどう変わるかのかはシュミレーションできる。

それはスタートレックの世界ではあるし、少なくても船場吉兆のようなことはおきないだろう世界だ。組織は組織としての顔を持つことなく、個人の集合体となり、誰かに責任を転嫁することもなくなる自立した個が互いをリスペクトする世の中ではねーかの?

そんな個人のコラボレーションがちゅくりあげる社会、それがケモノの群れと同じく「王」のいない世界、ワシの言うところの球(Q)システムだ。

自営業者は皆口をそろえていう。

「こーなったら、なんか悪いことでもせんと金を稼げねーなー」
実際、それをして金をむしりとってるのがNPOとかだったりする。

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ぬるぼ

ひさしぶりに京都の町を歩いたが、なんか昔と変わらず若者の街だっ
たが、ちとカルチャーのベクトルが違っていたような気がする。ロハス的つーの?ジャパネスクでもカウンターカルチャーじゃなくて、やっぱしロハスな香りがするんだな。

でもお、マクロビ的なメニューを出すお店で飯をくったが、やはり貧乏くさい加古川の店と違っておしゃれで、若い奴がいっぱいだった。これはセンスの問題というよりは、考え方の違いやね。

オープンマインドか、クローズドマインドかの違いなのよ。掃除もちゃんとゆきとどいている。ちゃんと客を受け入れる体制になってるから、気持ちいい。

あたりまえといえばあたりまえなんだけど、このあたりまえができてなくても店として成り立つ加古川と、そうでなければ成り立たない都会の違いなんだろうな。

加古川から離れるといつも加古川に帰るのが苦痛になる。のんびりなーんにも考えずにクローズドマインドで暮らすにはイイ町かもしれないが、ワシには体質的にやっぱり合わない。

加古川の店や市民団体の特徴的なとこは、自己実現がイコール公共だと思っているところだ。「自分のやりたいことをやりました。結果、それがニーズだったのです」なんて言うとかっこいいけど、加古川ぐらいの人口でそれやっても、ようは身内受けしてるだけってことなんだと気がついてない。

それがこっけいに見え、またかっこわるいとワシは思ってしまう。

環境系の活動をやってるヒトが「加古川は環境に対する意識が高い」っていってたけど、いやそうじゃないとワシは思う。身内意識が高いだけで、環境に対する意識が高いわけじゃねーんだよ。

実際、加古川の川の中を歩いてみたら、夏に打ち上げられた打ち上げ花火のカスがいまだに大量に残っているし、針のついた釣り糸は山のように放置されている。対人口比でみたら都会のほうがよほど個人の環境にたいする意識は高いわけ。

さて、この加古川のぬるい子宮を蹴破るのは何がいいのか?ワシは少し前に環境問題のキーワードは「ブルジョワジー」だと書いたが、たぶんこれは的を得ている。

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笛を吹く馬鹿と、ついていく馬鹿

動画、衆議院議員下村博文氏が、ジュセリーノ予言で警告!
http://www.akibach.com/shimomura/shimomurayochi.html

その予言がいかさまであろうが、そうでなかろうが、そんなことは問題ではない。

前にも書いたが、わたしにしか見えなくて、他のヒトには見えないものは嘘か真実かを検証する方法がない。それが事実だと本人が言い張ってしまえば真実になってしまうからだ。

そのヒトにしか見えない羅針盤があったとする。その羅針盤が北はこちらだと指し示しているとそのヒトが言う。他のヒトはそれを確認しようがないなら、その見えない羅針盤の方向に進むしかないなら、羅針盤がみえない者たちはたんなる馬鹿で、ヒトに従うしかないロボットなのか?

予言師が世の中にいてもかまわないが、それはたんなる予言師でしかない。自分のジンセーにおいてその予言師を主人公にすることなぞない。あくまで自分のジンセーの主人公は自分であるべきなのだ。

自分の未来はあくまで自分の手の中にある。これがワシの言うスタンドアローンだ。組織の一部ではなく、孤立した命令系統の集合体がQシステムであり、それは次の世代の新しい社会のあり方というよりも、ケモノの群れと同じく、生き物に本来備わっているモノなのだ。

自分のコトバで語らず、誰かのコトバで語る奴や、ましてや予言師のコトバにほいほい乗っかる奴は、信用できない。それはたとえるなら、大企業のクレーム担当みたいなものだ。何かあったときは、自分の責任ではないと逃げ、おいしいとこだけは自分の手柄のように語る。

生物にはなぜ「個」というものが存在するのか?
それは前にも書いた可能性の模索こそが、個の理だからではあるまいか?

だだだだだちゅら!!!!である!

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未来は織り上げるもの。一本の糸ではにゃーい!

リチャードドーキンス君はその著書「利己的な遺伝子」で生物は自分の遺伝情報を未来に繋げるという目的を遂行しまんねやわ…というような事を言った。たぶん…。(いつもながらのことだが、実は…読んでない)

つまり、セークスつーもんはそういうことなのだと…。
このドーキンスの思いついた「理」は、一部のアホたちに受けたようで、浮気の現場で「あ、いや、その、ちゅまり遺伝情報をね、未来に残すために…」なんて言い訳をしたりする奴が続出したのだ。

ちょうどその頃に人気を博したテレビドラマ「高校教師」では、たびたび主人公がこの本を読んでいるシーンがでてくる。

「高校教師」は、真田広之演じる高校の生物の教師が、櫻井幸子演じる生徒とできちゃって、実はその生徒は父親にレイプされつづけるという近親相姦な関係で…なんていうドロドロしたお話。

ドラマ全編に流れる森田童子の「ぼくたちの失敗」の透明で消え入りそうな歌声と、詩的なモノローグのナレーションが、ストーリーのドロドロと相反し、その振れ幅が魅力だった。

脚本家の野島伸司は、このドーキンスの本を小道具として登場させることで「ふふん、愛なんつーもんは遺伝情報などーのこーのなんていう単純なもんではなくて、ドーキンスの言う本能とソーシャル(ま、いわゆるニンゲン関係)なものが複雑にからみあったもんなんじゃい」なんてことを言いたかったのだろ。

このドーキンスと野島伸司の話は、ニーチェのニヒリズムで味付けして考えたら面白いのだが、今回はそーゆー話ではない。

ワシは十分エロいニンゲンだと思うが、利己的な遺伝子的なエロさは皆無である。誰でもかれでも、ねーちゃんであるならワシの遺伝子をばらまくぜ!オラオラとはいかないのだ。

いくらウホウホなおねちゃんがいても、それを遠目に見てるだけならハッピーなのだが、いざお話なんかをしてみたら、たちまち萎えてしまう。その第一の原因は「頭の悪さ」である。

ナイスバディでも、お洋服がかっこよくても、あ、こいつは頭が悪いなと思った段階で「生理的な嫌悪感」を感じてしまうのだ。こーなったら、もう同じ空気を吸うことすら軽いストレスに感じてしまう。

もちろん、ワシもえーとしこいた大人であるから、そんなことは口にも顔にもださないように努力し、リップサービスで誤魔化す術は心得ている。しかし、この生理的な嫌悪感はぬぐい去ることができない。

どーも、これはワシだけの神経質なものなのかと思っていたが、そうではないようだ。若い奴は、なんでもよかろう的なところがあるようだが、ある程度の年齢になったオスは、実に慎重なエロ機能が働くようである。これはエロの巣窟であるエロチャットでの聞き取り調査なので、信憑性は高いと思う。

思うに、ヒトはドーキンスの言うような「自分の遺伝子をとにかくばらまく」という理で動いているのではなく、「自分の遺伝子の可能性を模索する」という理で動いているのではないかというにのが正確なところではないだろうか?

自分の遺伝情報がより多くの未来を作っていく方法を模索するから、たとえばワシの場合、頭のワリーねーちゃんには萌えない。頭のいいねーちゃんには萌え、なのだろう。

ある程度の年齢を迎えると、数を撃てば当たるということも困難になるからか、やはり慎重になるのではねーかの?

ちゅまり!セークスは自分の複製、コピーをばらまき、未来に発芽させるということではなく、「わたしとあなたの融合として未来を模索し、築き上げようという行為」に他ならない。

さてさて、ところが最近気になるのがこの未来のありようが、どーもゆがんでいるのではあるまいか?ということだ。

自分の複製やコピーが未来をつくりだすのだと思っている奴がやたら多い。なにかのアンケートでもセークスするよりマスターベーションのほうがいいなんていう奴が増加してきたのも、未来への感覚の本能的なズレが起因しているのではねーかと思ってしまう。

ワシは自分が正しいとは思わないし、いくら自分の見た未来が具体的であろうが「予言」だとは決して言わない。これは先に書いた自分は可能性のたかが一部であることを知っているからだし、予言は千(無限という意味)の数ほども存在することを知っているからだし、未来は選び取るものではないからだと知っているからだ。

そーゆー意味において、ワシhはきわめて「正当派のエロ」であるのだ。(…なんか言いたいことが途中で変わったけど、ま、いいや)

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エー歳こいた大人たちは、破滅にむかって暴走しているのだろうか?

らりほーがミクシイで「携帯電話からWEB機能を抜き去れ」という提言をしていた。
ほうほう、たしかに。昨日、加古川でなにやら教育を考えるというテーマのイベントが開催されていたらしいが、そこにこの提案を持っていきたかったぐらい的を得た提言だ。。

大人でさえ、出会い系やゲームやチャットやエロや、そういったコンテンツにハマリ大量の課金されて泣いてる奴が多いのに、子どもにそれらを自己責任で回避するようになんていうのは無茶な話である。

この前、ここで紹介したけど「オレ様化するこどもたち」の本の中に興味深いことがかいてある。ワシは本の内容を引用するのは好きではないが、あえてその部分を引用したい。以下…

「私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで『情報メディア』から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全にまきこまれている。子どもたちが早くから『自立』(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルに入り込み、『消費主体』としての確信をもつからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が『近代』を教えようとして『生活主体』や『労働主体』としての自立を説くまえに、すでに子どもたちは立派な『消費主体』としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校に入って、教育の『客体』にされることは、子どもたちにとっては、まったく不本意なことであろう。」

ま、早い話、子どもは自己が確率する前に「大人だと思いこんでいる」ということだ。

しかしね、こりは子どもだけに限らないのではねーかと最近のワシは思っている。
…というよりは、ここで書かれているオレ様化した子ども達は、すでに自己を確立できねーまま、あるいは自己の確立がクレクレタコラなまま、すでにイー歳こいちゃってるという言い方のほうが正確だ。

いー歳こいた大人が、痴漢したりして、はては「エロイ服きているからだ」などと警察署長が言っちゃったりする。えーと、あと思いつかないけど、イー歳こいた大人が…で語る事件や出来事が世の中にはやたら多い。

どれも自分の問題やココロの問題を公にばらまいているだけの話だ。彼らには「立ち止まって自らの脳で考える」という行為が抜け落ち、「誰かが考えたことで走り続ける」ことしかしていないような気がする。そしてそれは、あの数が増えすぎたネズミが一斉に海に飛び込むというイメージを想起せずにはいられないのだ。

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どろろん閻魔くん

例の「テーブルが汚いところ」の仕事をようやく終えた。不思議なものでこの仕事を受けてから今まで忙しかった仕事がピタリと止まり、この仕事を終えた時から仕事が3件はいってきた。なんだったのだろうか?
そして納品したとき「世話になったね。ありがとう」と言われた。

ふむ、たしかに難しい人格だったけれどワシは最後まで逃げずに、投げずにやり終えた。「西鶴の他人と逢うときの3箇条」はかろうじて守られたわけだ。

ワシはたしかにヒト嫌いである。ワンコの耳を引っ張りながら、音楽を聴き、ワイルドターキーを舐めながら庭の木が排出するできたての空気とタバコを交互に吸う。そんな環境に何時間でもひたっていたい。

しかーし!ワシは消耗すべきだ。ヒトと逢い、ヒトの群れの中に、あしたのジョーのように両手ぶらり戦法でわけいっていこう。そう思った。
意見を述べ価値をこすり合わせ、また消耗し、そんな語りを今はすべきなのだろう。どんどん、きやがれ。Qシステムは社会を構成するアイデアではなく、ヒトのココロの中にも存在する「ケモノの理」だ!

ヒトを惑わし、不安をばらまき、人格が複雑にもつれた罪人を前に閻魔大魔王は裁きを下した。

「では裁きを言い渡す。汝!己の私利私欲を最重要の優先順位としウソをつき優位にたとうとする性根は腐りきっておる。したがって、無罪とする!」

それを聞いて地獄に住むものたちは騒ぎ出す。

「ええーっ!罪があるのに無罪なんすかぁあ?」

閻魔大魔王は、雷鳴のような声で言った。

「罰を与えることがこの法廷ではぬぁああいいい!
 この法廷は理を確認すべき場所。
 己の罪に向き合うことから、己の弱さ、己の凹んだ部分を認識し
 その凹んだ部分を他人の凸した部分で補完することを
 思い出させる場所であーる!自分と他人、自分と世界は地続きなのにゃー!
 それに気がついたものは、すべて許す!
 これが閻魔の裁きである!へーてー!」

その時、地獄に太陽が昇った。太陽は今まで暗闇にかき消されけっしてみることができなかった地獄の地平を照らし出した。そこにはまちがいなく明日が在った。

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ペィフォワード

さて、前回ペィフォワードのことを書いた。おさらいして
おくと、一人の人が3人を助けるという、ただそれだけのルールーを作ることで世の中に多くの価値が蔓延してゆくというおとぎ話。

じつはこのペィフォワードをさらに研究してゆくと面白いことに気がついた。多くの生物は、子供の教育や自らの生きてゆくモチベーションにこのペィフォワードを利用しているのではないかということ。生きているというだけで、そこには唯一無二の存在となりえるシステム。それは実は生物が試行錯誤の中、構築してきた強固なシステムではないかと気がついた。

が、そのお話は長がぁぁぁくなるのでまたの機会に。今日、ここで述べるのは、そのペィフォワードの逆現象が世の中をどんどん住みにくい悪意の満ちたものに変えてきているということを書きたい。

ある日、ワシは仕事上のつきあいのある某会社で茶を飲んでいた。仕事の話もあったが、たんにウダウダと世間話をしていたが、その会社の社長がなぜか機嫌が悪い。なんでも取引先とイザコザがあったらしいが、その話を聞いてこの社長が怒るのももっともだと思った。が、しかしその日ワシはめづらしく朝から機嫌がよかったのだ。機嫌がよかった理由は朝一番にスタバで珈琲豆を買ったのだが、スタバのおねーちゃんの対応がやたらワシを上機嫌にしたのだ。ところが、この社長の話を聞くうちにワシの機嫌の良さのメーターはみるみるマイナスに針を振る。さっきまでの機嫌の良さはどこか時空の彼方にふっとんで行ってしまい、重い足取りでワシはこの会社を跡にしたのだった。

さて、ワシはいわれなき気分の負債を背負った。この負債を清算すべく朝買ったスタバの高級豆アラビアンモカサナニを飲みながら、最近気に入っている寺井尚子のジャズヴァィオリンでも聞きながら、これまた高級タバコのキャプテンブラックの紫煙でも眺めようと思った。寺井尚子の新しいCDを探しにツタヤに寄ったのだが、時期は夏休みの真っ最中。しつけのされてないガキとそれを放任する親が走り回っていたので、気分はさらに萎え、CDも借りずに疲れはてて事務所に帰ったのだった。

気分の負債はいっこうに精算されないまま、メールを開くと偶然、加入しているメーリングリストがもめていたので、ここぞとばかりに理屈でねじ伏せ、ついでにネットゲームのリネージュでモンスターやプレイヤーの首をはね、回りを地の海にしてようやく負債が精算されたような気になったのである。うーむ、こう書くとネットのゲームやチャットでのアラシなんてもんはガス抜きなのか。

さて、この「報復の連鎖」ともいうべきことは、なにも日常生活に限ったことではない。世界の多くの紛争はたんなる揉め事などではなく、そこには大きな歴史的な怨恨がある。そこにある世界規模の正義なんてものは、当事者にとっては正義などではなく、たんなる怨恨でしかない。怪獣を倒すために立ち上がったウルトラマンに家族を踏み殺されて黙ってられるかというたとえは、不謹慎すぎるだろうが、単純に言えばそういうことだ。

普通、人はミニマムな生活しか考えられない。グローバルな視点で物事を考えたり、太極を見ながら生活なんてできない。もし、それが出来ているという人がいるのなら、それはよほど生活に余裕のある金持ちか。偽善という洋服を身にまとった香具師であろう。

世の中の悪意や不幸、それを「見ないふり」をすれば、朝の機嫌の良さは持続できる。が、しかしそれは一種の閉じこもりだ。金に余裕があれば、おそらくワシは事務所から一歩も外に出ずに、毎日楽しく気分良く過ごせるのは間違いない。一人で楽しむ術は山ほど知っている。が、そうはいかない。見ないふりをするほど、余裕はない。何かしらで、悪意や不幸と隣り合わせでいるしかないのである。

では、機嫌良く暮らすにはどうすればいいのか?誰かから背負った悪意や不幸の負債は、また別の誰かに背負わせるババヌキゲームでしか解消できないのだろうか?悪意や不幸を誰かに押しつけるババヌキゲーム。これが逆ペィフォワードだ。このペィフワードは、またいづれ自分に返ってくる。それは時間の問題だ。さらに今度引いたババヌキのカードは、以前引いたカードよりもさらに強力なものになっているに違いない。

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体感とはこういうことだぜぇぇぇ

3月4月はやたら忙しくかったのだが、5月になってからは連休もあ
って一気に奈落の底の暇さである。3月4月で稼いでも5月がこの調子ではうーむ。

ワシは生きていくのに最低月25万円を稼ぐ必要がある。たぶん自営業者としてはかなり低い維持費だ。従業員を抱えて、さらに大きな店舗を抱えて、銀行から借り入れをしてなんてことでやってる奴はすげー維持費を抱えているだろう。

月何百万の維持費を抱えながらも、鬱にもならずに笑っていられるのは儲かっているからではなく、どこか神経が麻痺してしまっているのだとワシは言うが、誰もがその意見に大きくうなずく。

シンプルに生きていくのは簡単だ。もうダメですと白い旗ふれば誰も命をとりにはこない。ダメです宣言をしても5年ほどしたら、クリアになりまたゲームに復帰することは可能だし、最近はそういった技を丁寧に教えてくれるNPOなんかも全国にある。

が、それは生きながらえることができるというだけのことで、実際は多くの人に不幸をばらまいていることは事実だ。

たとえばワシ。ワシを殺すには刃物はいらない。ワシに支払う金額をたった数ヶ月延ばすだけでワシは瀕死の重傷を負う。重傷を負いながらもワシも誰かに金を支払う身であるから、這ってでも戦わなければならない。が、ワシが息たえたら、ワシの金を待ってる奴が今度は瀕死の重傷を負うことになるのだ。

これはトランプの7並べに似ている。誰かが8をとめると9を持つものが死に10を持つ者が冷や汗をかくのだ。

この連鎖があるから、誰もが簡単に白旗をふれない。ましてや家族や子どもやらがいて、守るべきものが増えてくれば増えるほど、自分の勝手でシンプルになんか生きることはできなくなる。

そんな環境を呪いつつも、戦い続けなければならないことに何の手だてもなく、時には酒を飲み、愚痴り、キャバのおねちゃんにオヤジギャグを連発し、「シャチョサンステキ」と片言の日本語でほめられ、カケラと散った自信を無理やりにつなぎとめ、また日々を戦っていくのだ。

ワシはそんな生き方を否定はできないし、馬鹿だとは思わないし、ワシのキャパシティいっぱいまでは愚痴でもアホな遊びでもつきあうつもりだ。

それでワシはたしかに消耗はするし、疲れるが、それらを否定したり忘れたり逃げたりしていては、屁理屈は産まれない。

これが「体感」である。これによって「感情は賢く」なり、「優しさ」や「強さ」が構築されるのだ。鈍感力は賢さでも強さでも優しさでもない。それは自分の世界に閉じこもっているだけのことでしかない。自分にとって都合のいい世界。そんなモノはクソで未来ではない。

昨日は、「てんつくまん」がワシの事務所「西鶴精舎」に来られた。なんか元お笑いタレントだということだったので、ワシは完全にお笑い対決モードだったのだが、本人はそんなつもりは全然なくってワシはひとりでネタを連発していた。

ワシは、Qシステムやいろんな話を語ったのだが、はて理解はしていただけたのだろうか?彼はたしかにワシと違い、アクションの人で、そのアクションはエンターティメントとしての機能を有するのだが、うーむ。

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無知のヴェール…戦闘的アジテーション

さてさて、ワシの書く文章が難しすぎてわかんないと言うヒトがいる。で、話をしていたら、すげーよく理解してたりする。「あーた、わかってるじゃん」。
こりはつまりね、音楽みたいなものなのね。

たとえば夏のある日。カックイイ、ミュールを買いにでかけたとき、お店のスピーカーから音楽が聞こえてくる。福山雅治のスコール。

「わたぁしぃ、恋をしてぃるぅうう♪せつないぐぅらぁあいい♪」

そのフレーズを聴いたときにミュールを買いにでかけていた彼女は気がつくんだ。

「ああ、そうワタシは恋をしているんだ。彼と今まで楽しくて笑っていたのに次ぎの瞬間には離れるのが嫌で泣いている。そう、それは真っ青な晴れた空を洗う真夏のスコールのようだわ。そう、わたし恋をしている…」

今まで気が付かなかったスコールの歌詞が彼女には一瞬で理解できた。それは自分が体感していることをこの曲が、非常にうまく言葉にしてくれたからだ。わたしの気持ちを代弁している。彼女はそう思ったに違いない。

ワシの文章を難しく思うが理解しているヒト。わかんないのは単語であって言いたいことは自分の中にあるものと同じなので、つまり共感できているのだ。だからわかんないけど、理解はできている。

かたや、ワシの書く文章が理解できるというヒトは、なんか話してたら微妙にずれてることが多い。基本的に理解はしていないのだ。

文書の基礎となる思考。そこには明確な方程式が存在する。前述の「本当に理解できているヒト」はその方程式に別の数字を打ち込んでも、方程式自体が変化することはない。なぜならその方程式は、ワシが作り出したものではなく、そのヒトの頭の中にすでにあったものだからだ。理解とはこういうことだ。

かやた、後述のヒトと話をしていて微妙にずれるのは、この方程式を理解していないからだ。違う数字を入れたらたちまちボロボロになってしまう。こういうヒトは、すべてを知識として記憶することで能力を身につけようとしているのだろう。そこに何か方程式があることを見ようとしない、もしくはそれを分析するだけの体感や能力が無いのだ。

犬の訓練や子どもの勉強などもそうで、「何かを知ろう」というヒトは方程式を探る試みをするから、違う場面でも賢くふるまうことができる。つまり応用が利くのだ。ところが「何かを知ることで他人にイイ顔ができる」と思っているヒトは、方程式なんかどうでもいいから、知識が多いが応用が利かなくなる。※ちなみ日本の最高学府である東京大学ではこの方程式的な学習方法を会得する日本で唯一の大学だ。

なんか環境系でも、子どもが何か環境にいいことをしたら、スタンプを押すという事業があるらしいが、これなんかもワシの方程式に入れたら「?」がコロリと転がり落ちる。それを文章にしたり言葉にしたりするのは至難の技だが、方程式がわかっているヒトには、なーんとなく感情的には嫌な感じを抱くはずだ。

ワシはアホは嫌いで、生理的な嫌悪感すら感じる。もっと正確に言うならこの方程式がわからない奴がアホの定義だ。難しい言葉がわからなくても、なーんにも知らなくても、新聞読んでいなくても賢い奴は賢い。

つまりね、自ら体感し考え、方程式を練り上げると「感情が賢くなる」のだ。

この感情が賢い奴とお話をすると互いにどんどんインスピレーションがわいてきて、双方向な未来が築けるのだ。(価値観を交換することで新しい価値観が構築される)

※ちなみに感情が賢い奴ってのは、なかなか見分けがつかない。なぜなら世の中で大手をふって歩いているのは方程式がわからんアホが知識をまとい裸の王様をしておるからだ。感情が賢い奴は…そーこれは社会構造の基本的な部分で考えるべきテーマかもしれないが…アメリカの学者「ジョン・ロールズ」の言うこところの「無知のヴェール」をかぶっている。

※この「無知のヴェール」。ワシ的言い方をしたらこれは「仮想閾値」って奴だ。感情が賢い奴が大手をふって歩ける世の中になれば、仮想閾値はたちまち世界を根底から変える原動力になるに違いない。

※無知のヴェールはハリーポッターの透明マントのようなものである。このマントを着ていればなんとか今の社会で生きていくことが可能だ。ワシが紡ぎ出す音楽の歌詞のようなアジテーション文章は、この無知のヴェールをはぎ取ろうとする行為でもあり、方程式の解らんアホの踏み絵でもある。

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2008年5月18日 (日)

生命維持装置は金がかかるのか?

全自動の洗濯機をもらったので洗濯が嬉しい。だもんで最近は朝早くに起きて洗濯したり庭の掃除をしたり縁側で新聞読んだりしていて、早起きは少しだけマイブームなのだ。

きょーも早くに起きて掃除して、コーシー飲んでいたら電話が。いつもなら電話はとらないのだが、なぜかとってしまった。

なんかベラベラ朝から饒舌な奴がYAHOOの電話がどーこーとしゃべっている。こゆ奴はマニュアル見ながらしゃべってるから一方的に壊れたCDのようにしゃべりつづける。まったくもってインタラクティブ(双方向)ではねーんだ。

あんまし早口なので語尾が空気が漏れる発音になってて聞き取れない。

「つか、ウチはもーすでにBBフォンだが、調べてからかけてこいよ」

そういうと、相手は空気の漏れる発音で何やら短いコトバを言って大きな音を立てて電話を切った。

さわやかな朝の空気は一変した。胸くそわるー。だからワシは携帯しかでない。たまに固定電話に客が電話してくるもんだから、たまには電話にでるが、もー名刺から固定電話の番号ははずしてしまおう。つか固定電話はFAX専用にしちゃおうか?

でもこの前はFAXでなにやら宣伝がきていたし。FAXは感熱紙ではなくてインクジェットなので勝手に送られるFAXでワシは経費を消耗していることになる。しかも、「このようなFAXが不必要な時が必要ないと連絡してこい」と書いてある。

はたして、こんなので客が獲得できるのだろうか?

船場吉凶を持ち出すまでもなく、今の世の中は「いかに金をむしいとるか」を会社の基本においている企業が多い。

たとえば「人を殺す」ことはいけないことだが、これらの会社の論理…「金をむしりとる目的のためには手段を選ばない」からすれば、「人を殺してもかまわない」となる。

少し賢い企業になると「金をむしりとる目的のためには手段を選ばないから人を殺してもかまわないが、それがバレると会社の信用が失墜するから、人を殺してはいけない」というコンプライアンスになってくるだけのことだ。

これはモラールの問題というよりは、市場原理主義のプライオリティ(優先順位)の付け方の問題だ。資本主義なんつーもんの内在するバグなのではあるまいか?

そのバグを修正するために教育や宗教や道徳や、閻魔様のものがたりや、西鶴の屁理屈なんかがあるのだが、最近はそういった心のあり方を示すものすら、目的のためには手段を選ばないという市場原理のバグに感染しているようなのだ。

「誰もが地球上に住む誰もが、生命を維持することが補償される社会なら、これらのプライオリティも正常になるだろうが、それが補償されないなら、まったく新しい社会のシステムを考えたほうが、えーんでないかい?」

ワシはその方法として、せめて食い物と住む空間だけは金以外でも交換できるシステムを考えていたりする。

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クレクレタコラ ダチュラ

大衆はクレクレタコラ
組織はサービス合戦
情報の自由化とネットワークは
組織崩壊に加速度をつける
2000マイナス3年の今、
我々は組織依存なき個を
維持できるのだろうか・・・

これは1997年の西鶴年賀状の一文である。
思えばこれが西鶴版「クレクレタコラ」のデヴューであった。
・・・が、クレクレタコラの根はもっと深い。

ワシの文章に時々でてくるワード「クレクレタコラ」。それは何なのかを書いておきたい。

かって糸井重里は、バブル全盛の頃「おいしい生活」というコピーを世にだしたことがある。それは戦後日本が「苦労することが報われる」と、国民が汗を流すことを美徳とし、国の再建をわずか数十年でやりとげたこと対するアンチテーゼとして糸井が編み出したコピーだ。

国民が流した汗が実は公害しか生み出さなかったというシラケから、産まれた糸井をはじめとするノンポリ層。彼らの世代が製作した子供番組。それがクレクレタコラだ。

ある日突然、海に住んでいた「フテクサレダコ」が怪獣となって上陸、なぜか木に登り、今日も木の上から望遠鏡で、欲しいものを見つけては、持ち主に「クレクレッ!クレクレッ!」。

お供のチョンボと連れだって、ねだったり、脅したり、挙げ句の果ては暴力にまかせて奪い取る。戦利品をもってスタコラ逃げるタコラだけど、最後はドンデン返しが待っている。

結局森の仲間に取り囲まれ、あわれタコラはボコボコに・・・・
「クレッペ、クリャルカ、クリャリンコ~」。
タコラは今日も馬鹿を見た~。

これは、昭和48年~49年に5分枠で放送されたタコ風の着ぐるみのキャラクターが活躍(?)する子供向けの番組。
毎回、タコラと相棒チョンボがひたすら他人の物を奪うという悪行を重ねるといったストーリ展開であるが、その不条理さは子供番組といえど見る者に暗い影を落とす。なにしろクレクレタコラの悪行は、イタヅラに域をはるかに越え、犯罪なのだ。それは、NHK教育チャンネルで放送されていた「やんちゃる・もんちゃ」のイタヅラをはるかに凌駕する。

テーマソングの「なんでも欲しがる~ク~レクレタコラ~」という歌は一部マニアの間ではいまだに歌い継がれている。

かわいいさかりの中学生の頃の西鶴は、お昼の休み時間にクレクレタコラのテーマソングを歌いながら各教室を回り、税金と称して弁当からめぼしいおかずを一品いただき3年間を生き延びた。この悪行が、成立したのはクレクレタコラのテーマソングによるところが大きい。
賢明な女生徒は、西鶴用の弁当を別に用意していてくれたりした。

また、今から数年前、篠原ともえのシングル、クルクルミラクルには「篠原ともえとクレクレタコラ」という楽曲が収録されており、それが火付け役となり小さなブームにもなった。

Tシャツやアイスキャンディーメーカー、クレクレタコラよりぬき版というビデオ(全3巻)、携帯ストラップやタコラ人形、またUFOキャッチャーの景品になど、静かにひそかにそのブームは進行した。

http://www.youtube.com/watch?v=XU23sFOCjbM

さて、なが~い前置きだが、最近はこのなんでもほしがるクレクレタコラが大量増殖している。始末が悪いことに最近増殖中のクレクレタコラは、そのほしがる行為が個人のたんなる要求なのに、公共の求める要求だと勘違いしていることだ。

ある団体が実施している事業もそうだ。これは子どもが描いた夢を大人が実現するという事業なのだが、子どものわがままをきいちゃうだけの話で、子どもが夢をかなえるのをサポートしているわけでもなんでもなく、ただクレクレタコラなニンゲンを増殖させる機能しかない教育上よろしくないものではあるまいか?

実際、ボランティアと称して助成金をげっちゅし、カラオケしているような、個人と公共のごちゃまっぜのような事業に税金は大量に導入されているケースは山のようにある。

環境系活動も、個人的に求める「気持ちよさ」を多くのヒトに強要していることが多いような気がする。

ワシはたしかに世界は個人の延長線上に在るのだと言った。しかーし、ワタシが世界に拡大されることではにゃい。ワタシの先には「ワタシとアナタ」がいて、その先には「ワタシとワレワレ」がいて、その先には「ワタシと世界」が在るのである。

ワタシの延長がいつまでもワタシなのは、マスターベーションであり、そんなものはダチュラ!だ。

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2008年5月16日 (金)

シャーワセのココロ

幸せと不幸の境目ってなんだろうと思った。
そのゼロ点はどこにあるんだろう?

シャーワセの中にいたら、その境目はシャーワセの只中にいる「今」がゼロ点になり、不幸の只中にいたら、その不幸の只中の「今」がゼロ点になるんと違うやろか?

ある宗教団体が、こんなことを言ったことがある。
「犬や猫は、心がないから寝転がっていても幸せを感じれる」

たぶん、「ニンゲンは犬や猫より霊的位が高い」ってことと、「人生は修行だよ」ってことが混乱混線した解釈だと僕は思うが、たしかに現象としてはある面当たっていると思えなくもない。

で、僕が考えるには、生き物は常に危機的状況を想定するという知恵をもってるから、シャーワセのゼロ点が低いんじゃないかと思うのだ。

ヒトの不幸自慢は、病院に入院している患者を見るまでもなく、世間の風が冷たくなればなるほど中小のオヤジ連中は「儲かりまっか」「ぜんぜん」と言ってるけど、これもヒトが生物的に「ゼロ点を低く持とう」という知恵なのじゃないだろうか?

個人的なことを言うなら、僕の場合はゼロ点が逆転してるようなところがあって、生活が安定してくると「仮想だ」とか「希薄だ」とかわめきはじめる。で不幸な事態になると、「俺はこんな不幸をしょってるぞ」と自慢し屁理屈のネタにするという、不幸をしょいこむ癖を持つ、幸せな奴である。ああ、今日もビンボー暇なし。嬉しいぐらい不幸だーっ。

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ゴア博士はかくかたりき

ほら、なにが怖いいうーて、自分が死んだ
後に死体が残るっていうのが一番怖いとワシはおもう。しゅーって蒸発すればいいんだけどね。爆発したら、巻き添え食らうから怖いしー。

熔けるといえば「マグマ大使」にでてくるやられキャラの「人間もどき」だ。

人間もどきは、ニンゲンのもどきで、つまり「人造人間、有機体の人口生命」なのである。しかし、この人口生命は細胞の原子レベルから、人間そっくりの構造しているにも関わらず、機能を停止するとともに溶けてしまうのだ。その理由を開発者のゴア博士は次のように語る。

「わたしの名はゴア・・・人間もどきは、人間そっくりに作った。それは原子レベルからの複製であった。しかし、一つだけ修正を加えたのだ。
それは、個人という感情を持たぬようにした。私の意にままに動いてもらうためだ。しかし、何故か、機能を停止・・・正確にはこれは人間もどきの死ではない、人間もどきは基本的には形さえとどめておけば修復可能だからだ・・・したと同時に細胞は互いの結合力を失い、融解しはじめることになるのだ。

このことから、「個」を意識できぬ状態では「生」を固定できぬという、仮説をわたしはたてた。しかし、わたしの目的は世界征服とマグマ打倒である。だから、これでいいのだ。ムァマー。賛成の反対の反対なのだー。」

世界制覇をもくろむゴア博士の仮説、「個」を意識できぬ状態では「生」を固定できないはなかなか興味深い仮説だ。たしかに生は「個」の未来への架け橋であり、繋いでいく使命をもち、世界へのアクセスする方法である。だからこそ、生と個は切り離せぬ関係なのだろう。

他者がいてはじめて個は個であることを認識できる。認識できなければそこに生という概念も産まれるはずもない。

おそるべしゴア博士である。

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詐欺師のおっさんの歌

昔むかし、ピアニストで詐欺師のおっさんと仕事をしていた時、そのおっさんが言った。

「鶴さん、詐欺のコツは、自信やで。どんなボロな服を着てても俺は金持ちに見える。君はもっと背筋を伸ばせ。どんなに状況が悪い時でも、背筋を伸ばしてまっすぐ歩け。ヒトは服装で相手を判断なんかしない。背筋の伸び具合で判断するんや」

べつに僕は詐欺師になるつもりはなかったんだけど、この背筋を伸ばすことはなるべく意識している。ワシは普段の足がバイクだから、ネクタイスーツは着ない。企業に講師のアルバイトで行く時も、ネクタイなんかしめないし、どこでもジーンズで行くけど、背筋は伸ばしていく。臨戦体制の時は背筋が無意識に伸びる。

このおっさん、僕にピアノを教えてやる約束してたのに、「ちょっと別荘にいってくる」と手をふったきりいなくなった。パクられたらしい。
ん~、さすが詐欺師。約束は守ってくれなかったのだ。

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0と01の狭間の生命

西鶴
「ヒトが死んだり、犬が死んだりしたら悲しいよね。」

犬捨男
「へっ、今日はやけにセンチメンタルだねぇ」

西鶴
「でも、死んだ当人はそんなこと考えてなんかいないよね。悲しいと思
う感情なんて勝手なもんだ。自分の価値観の押し付けだよね」

犬捨男
「価値観は本来勝手なもんだ。価値観の擦り合せは市場の役目だよ」

西鶴
「じゃ、生きる価値ってのは市場が決めるんだろうか?」

犬捨男
「また、難しいこと考えてるな。なんでもかんでも理屈で考えるからへ
理屈なんだよ。ヒトや犬が死んで悲しいのは、勝手な感情だ。それでい
いじゃないか。問題ない。たとえば、西鶴が知らない逢ったこともない
ヒトや犬が死んでも悲しいかい?」

西鶴
「じゃ、悲しいっていう正体は何なんだろう?」

犬捨男
「関係が途切れることだよ。それは相手の死でもあるけど、自分の死で
もある。ヒトは本来、自分の見える範囲しか想起できないもんなんだよ。
西鶴が言う・・遠い空の下・・なんて、本来ヒトの範疇を越えてるんだ
よ。つまりイイワケさ。昔、あんたが書いた草稿がここにあるよ。もう
一回読んでみたらどうかね」
_____________________________

西鶴@学生時代はまったく勉強をせず、かつ学校にはほとんどいってないが38歳になってようやく勉学の重要性を感じるワシなのであった。
宝クジを当てて大学に入りなおしたいと思うのであった。

が、そのココロは何か大きな嘘の蓋を今開けつつあるという恐怖なのだ。誰か先人の智恵に頼らないともたないような気がする。で、ワシはその恐怖のおののいてスタコラサッサと逃げ出すか?いーや、宝バコは闇に隠されているもんだから、いっちゃうもんねぇ。状況を乗り越えてもまだ知りたい。何もかも捨て去ってもまだ理解したい。それって純愛じゃないか。そしてこの美しい背徳に対して、誰か先人ののお墨付きがほしいのだ。

まず、生きているという定義からはじめよう。生命の定義だ。

ワシの昔からの知り合い西山くん。彼は東京で芸能プロのマネージャーをしていた。彼はある日、眩暈がして階段から転げ落ちた。そしてあら
ゆる感覚器官が一時的に遮断された。なんでも脳にある種のバイキンがはいって、感覚器官と脳の神経の間に信号が行かなくなったらしい。
何日間か、植物人間状態で過ごしたが、治療のかいあって今は元気で暮らしている。その時の状態を彼はこう言った。

「暗闇の中に浮かんでる感じ。眩暈がして階段から落ちる寸前までは覚
えているけど、その後は真っ暗だった。やがて今までの記憶が次々と沸
いてきて、ほらフラッシュバックっていうだろ、死ぬ時には走馬灯のように記憶が蘇る。あれだと思った。いや、本当に死んだと思ったんだ」

フラッシュバック。それはいままで外界から情報を入れていた脳が、そ
のインプットされる器官と瞬間的に信号が断ち切られた時に、内界、つ
まり脳の記憶から情報を取り出すことによっておこる。なぜそれが起こ
るかは明らかでないが、どうやら脳は、常になんらかの情報と接してい
なければならないようなのだ。それは、我々が常に呼吸をしているよう
なものなのだろう。脳は、空気ではなく情報を呼吸することで生きてい
るのだ。

  ここで思いだすのが、フレデリックの実験だ。

赤ちゃんの言葉は学習で獲得されるのではなく生得的である」っていう学説を実証するための実験なんだけど、赤ちゃんを集めて生理的欲求をきわめて良い状態にして、しかし赤ちゃんには無言で接し、なるべく関わらないようにした。この結果、赤ちゃんは言葉を発する  どころか全員死亡してしまったという。

この赤ちゃん達は、生理的欲求は満足しているので、すべての関心は受容的欲求に向けられ、それが満たされないと脳の活性が落ち、脳の発達が遅れるのみならず、免疫活性も低下し肺炎などの病気で次々と死んでいったという。犬の「情報カロリー」などと絡めて考えると面白い。

しかし、この西山くんの身に起こったことを考えてみると、なかなか恐
ろしい。目、耳、触覚、すべての感覚器官が閉ざされるとはどういう感
じなのだろう。考えてみれば、我々は生きているということを確認する
ものはこの感覚器官からの情報の有無でしか、自分では捉えることはできないんじゃないだろうか。

コウモリは、エコロケーションという方法を使って暗闇の中で自分の位
置を確認している。音波を自ら発射し、それが洞窟内の壁にあたり跳ね
返ることから位置を割り出しているのだ。僕はヒトも実はこのエコロケー
ションによって自分を自分として認識していると考える。情報を発信し、
それが返ってくることで自分の存在を現実のものとして認知できるのだ。

ここで重要なのは、情報のインプットとアウトプットが対であることだ。
あくまで相対でなければならないのだ。つまり他との関係において成り
立つことこそが存在するということである。
昔の中国では、人間と書いて「ジンカン」と呼んだらしい。人間は、ヒトとヒトの間に宿るという思想からこう呼ばれたのだ。

生命活動とは、体の臓器が正常に働いていることではない。それはたんなる生きていることの結果にしかすぎない。生命活動とは、他との情報のやり取りのことだ。タマシイの在りかは0と1の整数の狭間にこそ存在するのだ。

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«来るべき未来というマスターベーション