2008年5月16日 (金)

シャーワセのココロ

幸せと不幸の境目ってなんだろうと思った。
そのゼロ点はどこにあるんだろう?

シャーワセの中にいたら、その境目はシャーワセの只中にいる「今」がゼロ点になり、不幸の只中にいたら、その不幸の只中の「今」がゼロ点になるんと違うやろか?

ある宗教団体が、こんなことを言ったことがある。
「犬や猫は、心がないから寝転がっていても幸せを感じれる」

たぶん、「ニンゲンは犬や猫より霊的位が高い」ってことと、「人生は修行だよ」ってことが混乱混線した解釈だと僕は思うが、たしかに現象としてはある面当たっていると思えなくもない。

で、僕が考えるには、生き物は常に危機的状況を想定するという知恵をもってるから、シャーワセのゼロ点が低いんじゃないかと思うのだ。

ヒトの不幸自慢は、病院に入院している患者を見るまでもなく、世間の風が冷たくなればなるほど中小のオヤジ連中は「儲かりまっか」「ぜんぜん」と言ってるけど、これもヒトが生物的に「ゼロ点を低く持とう」という知恵なのじゃないだろうか?

個人的なことを言うなら、僕の場合はゼロ点が逆転してるようなところがあって、生活が安定してくると「仮想だ」とか「希薄だ」とかわめきはじめる。で不幸な事態になると、「俺はこんな不幸をしょってるぞ」と自慢し屁理屈のネタにするという、不幸をしょいこむ癖を持つ、幸せな奴である。ああ、今日もビンボー暇なし。嬉しいぐらい不幸だーっ。

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ゴア博士はかくかたりき

ほら、なにが怖いいうーて、自分が死んだ
後に死体が残るっていうのが一番怖いとワシはおもう。しゅーって蒸発すればいいんだけどね。爆発したら、巻き添え食らうから怖いしー。

熔けるといえば「マグマ大使」にでてくるやられキャラの「人間もどき」だ。

人間もどきは、ニンゲンのもどきで、つまり「人造人間、有機体の人口生命」なのである。しかし、この人口生命は細胞の原子レベルから、人間そっくりの構造しているにも関わらず、機能を停止するとともに溶けてしまうのだ。その理由を開発者のゴア博士は次のように語る。

「わたしの名はゴア・・・人間もどきは、人間そっくりに作った。それは原子レベルからの複製であった。しかし、一つだけ修正を加えたのだ。
それは、個人という感情を持たぬようにした。私の意にままに動いてもらうためだ。しかし、何故か、機能を停止・・・正確にはこれは人間もどきの死ではない、人間もどきは基本的には形さえとどめておけば修復可能だからだ・・・したと同時に細胞は互いの結合力を失い、融解しはじめることになるのだ。

このことから、「個」を意識できぬ状態では「生」を固定できぬという、仮説をわたしはたてた。しかし、わたしの目的は世界征服とマグマ打倒である。だから、これでいいのだ。ムァマー。賛成の反対の反対なのだー。」

世界制覇をもくろむゴア博士の仮説、「個」を意識できぬ状態では「生」を固定できないはなかなか興味深い仮説だ。たしかに生は「個」の未来への架け橋であり、繋いでいく使命をもち、世界へのアクセスする方法である。だからこそ、生と個は切り離せぬ関係なのだろう。

他者がいてはじめて個は個であることを認識できる。認識できなければそこに生という概念も産まれるはずもない。

おそるべしゴア博士である。

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詐欺師のおっさんの歌

昔むかし、ピアニストで詐欺師のおっさんと仕事をしていた時、そのおっさんが言った。

「鶴さん、詐欺のコツは、自信やで。どんなボロな服を着てても俺は金持ちに見える。君はもっと背筋を伸ばせ。どんなに状況が悪い時でも、背筋を伸ばしてまっすぐ歩け。ヒトは服装で相手を判断なんかしない。背筋の伸び具合で判断するんや」

べつに僕は詐欺師になるつもりはなかったんだけど、この背筋を伸ばすことはなるべく意識している。ワシは普段の足がバイクだから、ネクタイスーツは着ない。企業に講師のアルバイトで行く時も、ネクタイなんかしめないし、どこでもジーンズで行くけど、背筋は伸ばしていく。臨戦体制の時は背筋が無意識に伸びる。

このおっさん、僕にピアノを教えてやる約束してたのに、「ちょっと別荘にいってくる」と手をふったきりいなくなった。パクられたらしい。
ん~、さすが詐欺師。約束は守ってくれなかったのだ。

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0と01の狭間の生命

西鶴
「ヒトが死んだり、犬が死んだりしたら悲しいよね。」

犬捨男
「へっ、今日はやけにセンチメンタルだねぇ」

西鶴
「でも、死んだ当人はそんなこと考えてなんかいないよね。悲しいと思
う感情なんて勝手なもんだ。自分の価値観の押し付けだよね」

犬捨男
「価値観は本来勝手なもんだ。価値観の擦り合せは市場の役目だよ」

西鶴
「じゃ、生きる価値ってのは市場が決めるんだろうか?」

犬捨男
「また、難しいこと考えてるな。なんでもかんでも理屈で考えるからへ
理屈なんだよ。ヒトや犬が死んで悲しいのは、勝手な感情だ。それでい
いじゃないか。問題ない。たとえば、西鶴が知らない逢ったこともない
ヒトや犬が死んでも悲しいかい?」

西鶴
「じゃ、悲しいっていう正体は何なんだろう?」

犬捨男
「関係が途切れることだよ。それは相手の死でもあるけど、自分の死で
もある。ヒトは本来、自分の見える範囲しか想起できないもんなんだよ。
西鶴が言う・・遠い空の下・・なんて、本来ヒトの範疇を越えてるんだ
よ。つまりイイワケさ。昔、あんたが書いた草稿がここにあるよ。もう
一回読んでみたらどうかね」
_____________________________

西鶴@学生時代はまったく勉強をせず、かつ学校にはほとんどいってないが38歳になってようやく勉学の重要性を感じるワシなのであった。
宝クジを当てて大学に入りなおしたいと思うのであった。

が、そのココロは何か大きな嘘の蓋を今開けつつあるという恐怖なのだ。誰か先人の智恵に頼らないともたないような気がする。で、ワシはその恐怖のおののいてスタコラサッサと逃げ出すか?いーや、宝バコは闇に隠されているもんだから、いっちゃうもんねぇ。状況を乗り越えてもまだ知りたい。何もかも捨て去ってもまだ理解したい。それって純愛じゃないか。そしてこの美しい背徳に対して、誰か先人ののお墨付きがほしいのだ。

まず、生きているという定義からはじめよう。生命の定義だ。

ワシの昔からの知り合い西山くん。彼は東京で芸能プロのマネージャーをしていた。彼はある日、眩暈がして階段から転げ落ちた。そしてあら
ゆる感覚器官が一時的に遮断された。なんでも脳にある種のバイキンがはいって、感覚器官と脳の神経の間に信号が行かなくなったらしい。
何日間か、植物人間状態で過ごしたが、治療のかいあって今は元気で暮らしている。その時の状態を彼はこう言った。

「暗闇の中に浮かんでる感じ。眩暈がして階段から落ちる寸前までは覚
えているけど、その後は真っ暗だった。やがて今までの記憶が次々と沸
いてきて、ほらフラッシュバックっていうだろ、死ぬ時には走馬灯のように記憶が蘇る。あれだと思った。いや、本当に死んだと思ったんだ」

フラッシュバック。それはいままで外界から情報を入れていた脳が、そ
のインプットされる器官と瞬間的に信号が断ち切られた時に、内界、つ
まり脳の記憶から情報を取り出すことによっておこる。なぜそれが起こ
るかは明らかでないが、どうやら脳は、常になんらかの情報と接してい
なければならないようなのだ。それは、我々が常に呼吸をしているよう
なものなのだろう。脳は、空気ではなく情報を呼吸することで生きてい
るのだ。

  ここで思いだすのが、フレデリックの実験だ。

赤ちゃんの言葉は学習で獲得されるのではなく生得的である」っていう学説を実証するための実験なんだけど、赤ちゃんを集めて生理的欲求をきわめて良い状態にして、しかし赤ちゃんには無言で接し、なるべく関わらないようにした。この結果、赤ちゃんは言葉を発する  どころか全員死亡してしまったという。

この赤ちゃん達は、生理的欲求は満足しているので、すべての関心は受容的欲求に向けられ、それが満たされないと脳の活性が落ち、脳の発達が遅れるのみならず、免疫活性も低下し肺炎などの病気で次々と死んでいったという。犬の「情報カロリー」などと絡めて考えると面白い。

しかし、この西山くんの身に起こったことを考えてみると、なかなか恐
ろしい。目、耳、触覚、すべての感覚器官が閉ざされるとはどういう感
じなのだろう。考えてみれば、我々は生きているということを確認する
ものはこの感覚器官からの情報の有無でしか、自分では捉えることはできないんじゃないだろうか。

コウモリは、エコロケーションという方法を使って暗闇の中で自分の位
置を確認している。音波を自ら発射し、それが洞窟内の壁にあたり跳ね
返ることから位置を割り出しているのだ。僕はヒトも実はこのエコロケー
ションによって自分を自分として認識していると考える。情報を発信し、
それが返ってくることで自分の存在を現実のものとして認知できるのだ。

ここで重要なのは、情報のインプットとアウトプットが対であることだ。
あくまで相対でなければならないのだ。つまり他との関係において成り
立つことこそが存在するということである。
昔の中国では、人間と書いて「ジンカン」と呼んだらしい。人間は、ヒトとヒトの間に宿るという思想からこう呼ばれたのだ。

生命活動とは、体の臓器が正常に働いていることではない。それはたんなる生きていることの結果にしかすぎない。生命活動とは、他との情報のやり取りのことだ。タマシイの在りかは0と1の整数の狭間にこそ存在するのだ。

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来るべき未来というマスターベーション

誰かが描いた理想の未来や、企画やアイデア。それらの「ものがたり」は、構造的暴力をつくりだし、ヒトにそれを強要し、軽いプレッシャーをかけていく。これは細木数子の「地獄におちるわよ」と同質のものだ。

時として、そういった構造的暴力は、父性に勘違いされ、世の中を牽引していく「力」だと思われがちなのだが、世の中を形成するのは「認めない力=父性」ではなく「認める力=母性」である。

困っているヒトはこの父性に身をゆだねようとするが、その父性は社会をつくっていこうとする意志なんかなくて、たんなる「自己実現のものがたり」でしかないのだ。

社会に溢れる多くの不幸は、この「個人の自己実現」が社会のためだと思い上がった所から始まっている。

自己実現を社会に垂れ流すのは、マスターベーションを見せつけるような趣味の悪いエロと同じことだ。

ワシはエロのプロフェッショナルなので、双方向でないと感じねーのだ。

マスは一人でやるもんで、未来はつくれないが、双方向のエロは未来をつくる。

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千のプラトーから千の未来へ

ま、だいたい春はあれである。いろんなものがでてくるのである。

今はやりの言い方をしたらデトックスっていうーの?ため込んだ毒素…毒素とは体内に合わない物質、不必要な物質ということ…が、でていく季節なのだ。

ワシは今、この春のデトックス時期で、目がかゆいのやら肌が荒れているのやらはまだいーのだが、のどが腫れているのである。
だいぶ腫れはひいてきたのだが、まだゴックンしたら痛い。が邪気満載の仕事ももーすぐ終わるので、それとともに腫れもひいていくだろう。

ワンコの場合は今は抜け毛の時期。これも一種のデトックスだ。冬に必要なアンダーコートの毛が春からの季節には必要ないので
体外に放出すりゅのだ。毎日毎日、抜け毛をすいているのだが、きりがない。おかげでダイソンクリーナーは大活躍だ。

この春のデトックスは、種の発芽という機能にも応用されているから自然は不思議だ。体内でガン細胞のようにそだった細胞が、春とともに外にでていく。それは可能性を探る冒険である。

社会にも春のデトックスは姿を表す。よく「春になるとオカシナ人がでてくる」なんてことが言われるが、たしかにそうで、それは陽気に浮かれて外にでてくるというよりは、発芽と同じで可能性の冒険として出てくるのである。

しかーし!世の中は簡単であるけど甘くはない。よほどうまいぐあいに可能性を探らないと、そこから花が咲き実をつけることはない。

最近の世の中を見回してみる。そこには多くの、そー、それこそ千(無限という意味だ)の未来がものがたりとして存在している。政治も例外ではない。こんな未来、あんな未来と誰もがものがたりを語り、そこに帰依する信者を捜すイス取りゲームに忙しそうだ。

ワシの左目にはそれらの未来は見えない。

なぜならぁ~、選び取られる未来のものがたりは、ひとつのものではないのが、「理(ことわり)=法則」なのだ。
ものがたりは、誰かが考えたものが実現するのではなく多くの人のものがたりが融合したものとして実現するからだ。

偶然にも今月号の「論座」でナントカっていう公共政策大学院のセンセが「構造的暴力」というコトバを書いていた。
発芽する個人の未来像。それらはまさしく構想的暴力として社会の毒として排出されている。

もちろんそれらは可能性なんかではなく、たんなる毒として審判をあおぐために外に出てきているのだろう。

とりまく環境に合わない性質は毒として大地に吸収され
とりまく環境にあった性質は発芽として花を咲かせる
これこそが、進化や進歩の「理」なのである。

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体感する力

しゃて、今日は例のテーブルが汚い家に打ち合わせにいく。もー、昨日の段階か
ら調子わりーもんね。こういった強烈な邪気を発するところで体が汚染された時、ワシはある場所に行く。

そこは宮内庁管轄の場所で、昔ながらの原生林のような自然が残っている数少ない場所だ。ナショナルトラスト運動なんてーのがあるけど、宮内庁トラストとしてそーゆー場所は日本各地に点在してたりするのが面白い。一種、人を寄せ付けない結界のようなものだ。

その場所は、空気が違う。深い深呼吸を繰り返すだけで体の内部、細胞の奥底からリセットできる。空気で体の内部から洗浄するみたいなものなのだ。

昨日は、第3回のかえる会議だった。多くの新参加者が来られ、ヤクザ犬は大忙し、ワシはダイソンのエプロンをし、喫茶店のマスターのごとく珈琲をいれまくる。

かえる会議の3原則が、どのように機能していき、何を産み出していき、何をかえるのか?それがワシにはとても興味深いことだが、生物の体のシステムをヒントにした3原則なので人数が多くなれば多くなるほど、その加速度は増していき、整合性(おのずとしかるべき場所に収まること)はとれてくるはずだ。

昨日も環境に関する意識をいかに持続させるかという話がでた。ワシはこれも「肉体の復権」というキーワードだと思う。

宮内庁トラストの原生林に身を沈め深呼吸するとき、誰もが「気持ちよく」思う。これは思想や宗教や組織やそんなものを超えて、カラダが気持ちよく思うのである。

食い物にしてもそうだ。この前ぜんりゅうふんのスパゲティを食べたのだが、ゆで汁すらウマイのだ。カラダにいいものはウマイ。単純なことだが、今の世の中ではゆがめられている事実だ。

つまりは環境系の活動とは、屁理屈ぬきで気持ちいいことで、気持ちよさには持続させる意志や思想など必要ないのである。

ワシらは、どーゆーワケか「歯をくいしばって、頑張って自ら生息する環境を破壊していっている」のだという事実。そしてそれがどこから始まったのかという過去。ふふん、それらの隠蔽された「問い」に誰もが気がつくとき、おそらく世界は一瞬にして変わるのだ。

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世界にアクセスするにはウェイトが必要なの

ぬぅ…いろんな方から「鶴さんちゅかれてるぅ」と言われる。
うにゅ…例のテーブル汚れてる家の邪気に当てられていて、その浄化中をしておるのだが、これがなかなか手強いのだ。

んがワシは「原則」を守る。自分にいったんかけたウェイトは、自分で解除してしまってはウェイトにならない。もー、星飛馬の大リーグボール養成ギブスみたいなもんだ。

で、思ったのだが、今なんかもめてるセーカリレー。
「原則」を応用したら、「セイカリレーに参加しませ~ん」とはならなくて、たとえば「チベット弾圧ハンターイ」なんて書いたたすきをかけてセイカ持って走るみたいな方法論におのずとなる。

かつて、日本で行われた万国博覧会。詳しくはワシはガキだったんで知らんのだが、なんか文化人やゲージツカはこの万博に反対していた。科学至上主義に対する反対だったのだろうと思うのだが、多くの文化人やゲージツカは万博協力に背を向けたそうだ。

その中で岡本太郎は、メインのシンボルタワー「太陽の塔」をデザインした。回りの文化人やゲージツカは「金に目がくらんだか!」と岡本を非難したそうだ。

が、できあがった太陽の塔は、その内部に生命の樹を配し、文明や進化がイコール科学ではねーんだという強烈な万博批判をモチーフにしていたのだ。

この間、岡本は何一つコトバを発することなく、自分のジョブでメッセージを発信したのだ。

かっこいい!たんなる爆発のおっさんかと思っていたが、岡本太郎のすごさはこの自分にかけるウェイトの重さである。自らかけるウェイトの重さは岡本太郎は創作の原点を置いている。モチベーションとは何か?じぶんはなぜ、創作をしているのか?じぶんにしかできないことは何か?そんなことを岡本太郎は知り尽くしているのだろう。

自分にかけたウェイトが重く感じられた時、ワシは目をむき、手を広げ、浮世絵のようなポーズで「爆発だぁ」と叫ぶ岡本太郎をイメージし、誰もみていないところでそのポーズをまねする。

そうすることで、ウェイトの重さが必要不可欠であることを自覚するのだ。

本屋にいけば「自己実現」に関するノウハウ本が山積みだ。誰もが夢をかなえることに「夢」を見て、誰もがそれが人生のシャーワセのように思っている。

が、ワシは思う。自己実現はウェイトの重さに比例するものではねーだろうか?ワガママで終わる自己実現はクソである。世界にアクセスし、そこに組み込まれてなお、「個」であること。それこそが岡本太郎の「爆発」であり、自己実現なのにゃ!

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他人との接し方3箇条

ワシは自分にいろんなウェイトをかけて自分の頭脳を制御しているのん。そのうちの一つが「他人との接し方3箇条」
ちと紹介しておいたほうが、いーかもしんないと思うんで書いておこう。

ひとぉおおつぅ!
意見はいうが排除はしない。

ひとぉおおつぅ!
悪口言うが嫌いにならない。

ひとぉおおつぅ!
いついかなるときでも理解しようとし、理解されようとすべし。

※写真はこの前つくったこの春さいごのつくしでつくった「西鶴つくしどんぶり」。うはうはですぜ、旦那。
※写真は、手作りぎょうざ。餃子はがくせーの時によく仕込みしたなぁ。焼くときは、揚げ餃子ぐらい皮をパリパリにしてから水を入れて蒸すのがワシ流。そすることでパリッ!じゅわぁ~となるのん。

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善良な市民という怪物

どーもいかん!今年になってから「人と逢うキャンペーン」は持続中なのだが、自分のATフィールドをはずしてるから、相手の影響をモロに受けてしまっている。

たとえていうなら、パソコンでファイヤーウォールをはずしてネットにアクセスしてるみたいなもの。こちらからもアクセスしやすいかわりに、向こうからもダイレクトに入ってこられ、かき回される感じ。

昨日は、例の「机が汚い」とこに打ち合わせにいってかなりダメージを受けた。

だもんで、ほとんど仕事らしいこともできず夜は「かえる会議」。おねちゃんたちがたくさんで、ウホウホ、夜は早く寝たので少しは回復したが、朝起きてみたらやはりまだダメージは続いているのだった。

世の中には放置された人格が多い。最初は、たんに「少し困った子ども」ぐらいだったのだろうが、それが修正されないまま大人になり、なにかしらの資格を習得し、センセと呼ばれるようになり、ますます修正不可能な人格は凝り固まるにだろう。

「少し困った子ども」は「大いに困った大人」に成長し、ますますそれを修正されることなく誰もが放置する。本人はセンセなんて呼ばれてるもんだから放置されていることに気がつくこともなくますます輪をかけていくのだ。

持ち上げられてウホウホいっている裸の王様なら、まだかわいげもあるが、放置され凝り固まった人格は怪物である。始末の悪いことにこの怪物はいたって善良な市民の顔を持ち、また放置されているがゆえに社会的にはある程度の決定権を持っていたりする。

こういった人格が、たとえば政治とか教育とかで大きな発言力を持つならこれは大きな問題だ。実際、ニュースなんかでそういった人格が世の中をおかしくしているのではないかと思わせるものも多い。

2ちゃんねるをはじめとするネット上のカオス。その混沌の中には匿名性ゆえの整合性、匿名性ゆえの正義がたしかに存在する。

その正義をなんとかリアルな社会にもってくることができれば、こういった怪物は成長せずにどこかでまともな人格に修正されるのではないかとワシは考える。

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つまりは目的が「ぶれる」ということか・・・

ワシのつくる名刺は、けっこう評判がいい。ふつーの住所や名前が書いてる名刺とちがって、「今、その会社が何を考え、何をしようとしているか」とか、「お店の今のオススメのメニュー」とか、そういった情報を名刺のスペースにのっけるからPR効果は抜群なのだ。

せっかく顔を合わせた方に直接手渡しするのだから、たんなる名刺じゃもったいないという単純なことなのだが、あのスペースにコンパクトに情報をまとめのっけるのは、なかなか他の業者さんだとできない技なのだと最近気がついた。

んが、そのへんの名刺屋さんに頼んだら100枚1500円ぐらい。もちろんワシのつくる名刺みたいなのではなく、たんなる住所と名前というテンプレートの文字を打ちかえるだけのものなのだが、ワシの場合だとこの倍以上の値段がかかることになってしまう。

それでも、ほとんどの人は安いといってくれる。うむ、たしかに安い。が、ワシ的には名刺は、どんどん配ってどんどんリピートしてもらいたいのでこれ以上値段を上げる気はまったくない。あんまし高いと、配るのにも考えてしまうからね。

とろこが、たまーにワシの名刺を高いと思う人もいる。そんな人はたいていがモノの値段の基準をその原材料の値段だと思っているようで、たとえば名刺は紙だから安いのが当たり前だと思いこんでいるのだ。主に社会経験の少ない人やなにか大きな組織やモノや金に守られている人ににその傾向が多いような気がする。ま、こんだけ価格の差がなんでも激しいご時世なんで解らないわけでもない。100円ショップなんかいったら頭がクラクラするもんね。

この前、なんかDVDの販売のチラシをつくった時に、打ち合わせをしながらその場でパソコンをかちゃかちゃしながら作ったのだが、後ろで見ていた皆さんが非常に感動なさったみたいで、ワシ的にはなにを感動したのかが不思議なのだが、すご~いと言われ多少舞い上がってしまった。

舞い上がった後で、なにがすごいのかを考えてみたのだが、こりはパフぉーマンすの一種なのじゃねーだろうか?と考えた。

ヤマトヤシキの民芸フェアみたいなところで作者がでばってきて、制作の過程を見せるような催しがあるがあの一種である。

世の中を見回す。

手打ちうどんの店先ではうどんを打っているところがガラス張りで外から見えるようになっている。これは、たしかにウチは製造しているんですよという信頼をもってもらうという意味があるのだろうが、一種のパフォーマンスだ。

最近では映画やドラマのメイキングがはやりだが、これもファンサービスという一面、舞台裏を見せることで「こーんなにテーヘンなんだよ」というパフーマンスだ。

前にも書いたがNHKのドキュメンタリーで、本の装丁のデザインをする人を取材していて、文字を一文字づつ手で詰めている…文字の間隔とかをピクセル単位で調整すること…を、たいそうなことのように言っていたが、いや、誰でもしてることなんすけどね…

制作過程を見せることで、先に名刺の紙代金にしたら高いというような勘違いはなくなるのかもしれない。こんなにテーヘンなんだよ、あるいはこーんな技なんですよということを口に出して、あるいは目の当たりに見せることで、価値をつけていくわけなのだ。

うーむ、パフォーマンスはわかるがのぉ…たとえばそれがライブ…二度と取り戻すことのできない時間…なら納得できる。ライブとは、見せ物ではなく「あなた」と「わたし」で作り上げる即興の時空間だ。それは究極のソフトウエアであるし、究極の時間の使い方であるし、究極のカックイイだ。しかしぃ、名刺をつくるのにはパフォーマンスは必要がない。

フレドリックブラウンの「木を植える男」。
荒廃した山に黙々と一人でドングリの種を撒き、森をつくろうとする男の話だ。この話の肝は、他人の評価や目を気にしないところだ。これはワシが前に書いたウサギとカメとウハウハねーちゃんの話にも通じる部分ではある。

が、この主人公が「今からワシは木を植えまーす」なんて言ってなるべく多くの人の目にふれるようにTVカメラなんか呼んじゃって、能書きを垂れながら種なんか撒いたら、うはっ!カッチョワリー!し、なにより信用できない。

ま、しかし…こういったことをカッコワリーなんて思うのは数少ないクラフトマンの性(せせせせい!ハァハァ…と書いてサガ)なのだろうという気もしている。

たとえば、犬のレスキュー。去年だっけ、崖っぷち犬がテレビで放送されて、あの犬の里親になりたい人は殺到し、寄付金なんかも集まった。たんに野良犬が崖で立ち往生しただけの話なのだが、テレビカメラが実況なんかするもんだから崖っぷち犬は自分が望んでるわけではないがパフォーマーになってしまった。

その結果、大勢の里親希望者や寄付金。また「KRDCドッグレスキューねっいとワーク」なんかも崖っぷち犬とは関係ないけど多少寄付がふだんより多かったそうだ。世の中に広く知らしめる…そういう意味ではパフォーマンスは機能したわけだ。

木を植える男もパフォーマンスがあれば、多くの人が手伝って、種なんかももらえたりして、森をつくるのはすぐに可能だったかもしれない。

しかし…ワシはそれらに違和感を感じる。広告屋のワシがそこに違和感を感じてはいけないのかもしれないが、違うような気がする。手法的には「あり」かもしれないが、これはドラえもんのポケットからでてくる道具と同じで「根本的解決にはなってない」のではないか?物事を加速させるのは、手法ではなくあくまでヒトの意志であるべきではねーのか?そんなことを思いながらもワシには有効な方法というのがまだ見えてはいないのだった

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肉体の復権

にゃんか、この前メガネを踏んづけてしまってフレームが折れてしまった。んで、少し前につくったけど度が微妙に合わないメガネをとりあえずかけているのだが、すげー目が疲れて、夕方には眼球の筋肉がバリバリに凝っている。

眼球の筋肉が凝るとニンゲンはよくできたもので眠くなる。つまり目や脳を休めなさいというヒトの体の中に宿る「管理人」からの指令なのだ。この指令に逆らうことはなかなか困難だ。ヒトの意志は、まずこの管理人の承諾を得てはじめて意志として発動する。このプライオリティの順序はかえようがない。

ワシはとりあえず目をつむり、最近お気に入りの藤田ゆかりの「シェルぶールの雨傘」なんぞを聞きながら、ウトウトとイスで鳥にように寝るのである。

この前、誰かわすれたけど、誰かと話しをしていて「最近集中力がなくなった」というようなことを言っておられた。ワシは答える。「そりは、たぶん目が見えないとか、耳が遠いとか、睡眠不足とか、空気が悪いとか、鼻がきかないとか、腹がへってるとか、電磁波で脳が軽く日焼け状態だとか、花粉症だとか、宿便がたまっているとか、胃が荒れているとか、そーゆーのが原因のことが多いよ」

そー、わりかし世の中はなんでもかんでも精神論で片づけてしまいがちだ。これを戒める意味でかつての賢者は「健全な精神は健全な肉体に宿る」とかいったわけだが、どーゆーわけか勘違いした人権主義者が反発し、あまり使われない言葉になってしまった。

ワシらは、体で物事を考え、体でなにかを成し、体で世界を感じるのだ。これは逆らうことのできない絶対的なものだ。これが揺らいでしまうと、すべてにおいてブレてしまう。

ワシは13年前、入院してからこの体というものに興味を持ち、自分の体と自分の意志の関係性をたえず注意して観察してきたが、たとえば体重の増減だけでかなーり自分の意志に影響を与えるのである。

たしか初期の頃の心理学でクレッチマーとか言うヒトが「体型的気質」を分類したようなことを中学の保健体育の教科書で読んだような記憶があるが、ま、血液型ぐらいの遊び程度にしか思っていなかったが、意外とこの身体とヒトの意志の関係をデータを集め研究したら面白いかもしれない。

さて、ワシの意志は今、「つくし」に向いている。春の毒気を中和するにはつくしに限る。去年ワシは喜瀬川のつくしの狩人と呼ばれていて、毎日ワンコとつくしを狩り、つくし料理フコースを毎日食べていた。頭の部分にはマカ顔負けの精力剤になる成分があり、また胞子は花粉症に効く。

加古川でつくしが群生しているところを発見できていないので喜瀬川までつくし狩りにいきたいのだが、ワシの意志に反する優先順位がてんこもりで、なかなか行けないのである。

体を求めるままに生きていけたら、たぶん世の中にあふれるのは「堕落」でも「快楽」でもなく、「健康」と「意志」だ。

ふふん、ワシは春の日差しの中でつくしを狩る姿を夢みながら、見えないメガネで客のところに行き、きょも戦闘的に語りつづけるのであった。

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2008年5月 9日 (金)

世界は「怪物」をつくりだす場であるが、人の集まる場は

そのとーり。たしかに昔のワシの書き込みは「読む人を選ぶ」文章。
つまり、ワシは誰に何を伝える気もなかった。

人に語る言葉は今よりも難解で、相手がその言葉が解らないことを意地悪く楽しんでもいた。当時のワシにとって言葉は誰かに何かを伝えるためのものではなく、自分のわがままを押し通すためのツールにしか過ぎなかったし、また人を傷つけるナイフでしかなかった。

昔むかし、ワシはある坊主に言葉の使い方を注意されたことがある。
坊主はこう言った。
「難解なことをいって相手を困らせる言葉は、たんなる言葉遊びだ。それがいくら真実であろうが、真理であろうが関係なく言葉遊びにしかすぎない。禅の問答は、相手も自分も考えることにある。相手を迷わすものは言葉ではない」

ワシはそんな坊主の言葉なんか全然忘れていて、あえて相手に理解されにくい言葉を選んで使っていた。世の中はワシにとって憎むべき対象でしかなかった。

ワシはずいぶん頭がいいが、それはやがて世界か、もしくは自分を破壊するものだろうと思っていた。そんな使い方しか思いつかなかった。

その頃知り合った犬飼い仲間がメーリングリストなるものに参加していて、なやら議論しているといっていて、誘ってきた。ワシは意地悪い意志をもって参加した。

ウィンドウズが今のような使いやすいOSになった頃の話だ。それまではワシはピーガガガーのパソコン通信でニフティのフォーラムなんぞで誰かをひっつかまえてはボロクソに批判する辻斬りみたいなことをして楽しんでいて、そんな行為にだんだん飽きてきた頃だった。

そのMLではいろんな人がいて、いろんなことがあった。現実ではけっして解らない他人の認識がそこにはアクティブに存在していた。

おもしろいもので、パソコン通信のフォーラムは、まだまだインタラクティブというわけではなく、どちらかというと掲示板で論文なんかの発表の場という感じだ。だからそこにはウソやきれいごとなんかも存在していて、ワシはそれに苛ついていた。

ところがMLは、インタラクティブでレスを返していきそれが堆積することから成り立っている。まさしくそれは、仮想空間上の井戸端会議だ。リアルには存在しないものがそこにはあった。それは、皮肉なことに仮想空間に存在するリアルな関係なのだ。

その頃のMLのバックナンバーは今でもパソコンを乗り換えても大事にデータを移している。いつでもその頃の書き込みにアクセスできるようにしている。そのMLの数年間の書き込みは、自分の原点だろうなと読むかえすたびに思える。またこういったリアルな関係は自分を確立するのには必要不可欠なのだと思う。

ワシはよく「自我なんてーもんは、自分と他人の間にあるんじゃい」というセリフを吐くが、このMLがなければそんなことは今でも気がついてないんじゃないかと思う。

いろんな事件がそのMLではあったが、そういった人の関係がワシの文章を確実に変化させてきたのにゃ。

理解なきことは、それがいかなる崇高な行為であろうが、犯罪と同義であるしテロと同義であるし、戦争と同義である。

また、回りに理解されないから、理解される者だけで群れるのもそれは「退行」に他ならない。

ワシは理解されるように努める。敵をつくるのではなく、理解されそして同志になる道を選択する。

文章は、自分を世界から切り離すものではなく、また破壊するものでもなく、自分を世界にアクセスさせる有効な手段なんだと気がついた。そして、ワシは今、この自分が体験し変化していったきっかけになったMLの構成要素をこの新事務所「西鶴精舎」という現実の場所に構築できやしないものかと考えはじめていたりする。

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スケッチブック

真っ白なスケッチブックを見たら、そこには色んなものが書かれているような気がするのでつい衝動的に買いたくなる。最近気に入ってつかっているのが表紙の色がとてもきれいなブルーのスケッチブック。

ノートや手帳やスケッチブックを使いこなす秘訣は「きれいに使わないこと」だと信じているワシは、この白い紙をどんどん汚すように心がけている。どんどん汚して、ページを破ったりして捨てていく。

だもんだから、そろそろ新しいスケッチブックが必要なのだが、加古川あたりでは衝動的に買ってしまうようなスケッチブックにはなかなか出逢うことがない。
ネットでなんでも家に届く時代だが、スケッチブックは実際に目でみてピンときたものでないと、使う気にならないから困る。

思うにスケッチブックってーのは、自分の頭の中の外部の入れ物なのだな。
だから感覚的に気に入ったものでないと、そこに情報を置けないのだ。

つか、あまりにもワシ的な言い方なので言い直そう。

たとえば、頭の中を部屋だとする。そこにはいろんな情報という荷物が入ってくる。タンスや机や、なんかごちゃごちゃした小物…で、満杯なわけ。

やがて、どこになにがあるか解らなくなってくる。あまりにもごちゃごちゃしすぎると、精神に悪影響がではじめたりもする。イライラしたり、重要なことを忘れたり、目的を見失ったり、ふさぎこんだりしてしまう。

そんなときは、整理整頓、大掃除が必要で、いらないものを捨てたり、めったに使わないものはアーカイブしたり、よく使うものは手の届くところに…。

んが!部屋が満杯ではそれをするのもタイヘンだ。机を動かすのにまず、空いた空間をつくりそこにタンスをとりあえず置いて、そこへ机をもってこようとしたら、とりあえず積んでおいた本がじゃまで、まず本を横にどけて…そんなパズル状態に陥ることになる。

そこでいったん、部屋の外に荷物をだせばいとも簡単に整理整頓大掃除ができるというものだ。

つまり自分の頭の中のごちゃごちゃしたものを、自分の外部のスケッチブックに書くことで、整理整頓をしているわけなのであーる。

つか、この事務所、まだ引っ越してきたままなんで、頭の中より現実に整理整頓しろよ!(←ガイドのカラスの声)

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ガイド

スタートレックヴォイジャーの副艦長チャコティはインディアン系の文化を継承
する人という設定で、スピリチュアルガイドと呼ばれる動物を呼び出し、助言を求めるというエピソードが時々でてくる。

このスピリチュアルガイドは、日本語に訳すと「精霊」っていう言葉がピッタシなのだが、この精霊は、チャコティの中に存在する「論理を超えた導く者」を具現化したものだ。

自分の中にいる論理を超えた導く者…。ワシ流の言い方をするなら、それが前回書いた「エモーション」だ。

ワシは、以前入院していた時に夜中にベッドサイドに変なカッパが出てきて難しいことを語り合った経験を持つ。これがガイドだと気がついたのはずっと後のことだが、なぜかワシのガイドは、その時々にカッパのような姿であったり、カラスであったりする。共通しているのはくちばしを持つことだ。

ワシはガイドのことを、くちばし族と呼ぶ。

最近ではカラスの姿でワシの夢にでてきて、ニンゲンは数学を1から発見したと批判していた。くちばし族は、数学をゼロから発見したそうだ。たしかニンゲンはインドあたりでゼロを発見したのはごく最近のことで、それは数学のパラダイムともいえることだったらしいと何かで読んだような気がする。

ニンゲンは、なにかそこにあるものを見て「1」と数えた。くちばし族は何もないことを「ゼロ」と数えたというからおそるべしだ。

よく解らないけど、ゼロから数えるのと1から数えるのでは、たしかにその後の発展に大きく違いがでるような気がする。ま、このへんは暇な時にでも考えてみよう。

自分の論理と、エモーションの対話。ワシはそれを仮想の人格を与えることで対話形式で行う。この対話でワシは「論理の人」で登場し、ワシのエモーションはくちばし族という人格で登場する。この二人を頭の中で好き勝手に対話させることはワシの至福の時間でもある。

人は誰でも自分の中にガイドを持つ。自分の論理は自分にウソをついたりするが、ガイドは自分にウソを言うことはけっしてない。

なぜ、悲しいのだろう?
なぜ、涙がでるのだろう?
なぜ、うれしいのだろう?
なぜ、つらいのだろう?

そんな自分のエモーションと膝をつき合わせてする対話は、迷ったときに道を指し示してくれるのだ。導く者は自分の外にはいない。自分の中にだけ存在するのだ。

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エモーショナルチップを装着した電子脳はそのとき、一人

スタートレックに出てくるアンドロイドのデータは、このエモーションを得るために様々な試みをするが、そんなエピソードを見ながらワシはこのエモーションがなぜ、人や動物に備わっているのかを不思議に思った。

そしてながい間考えた。何年か考えでてきたその結論は実に興味深いものだった。エモーションは、もっとも基本的なコミュニケーションの方法なのだ。

エモーションを使えば、ソロモンの指輪のように犬でも猫でも、ためしたことはないけどおそらくは象でもライオンでも会話ができるのだ。

言葉には基本的に養老センセの言うような壁ができる。たとえば、「赤い車」ということを伝えるには双方に「赤い」という認識、「車」という認識が必要だ。赤い色を見たことがない人には「赤」は伝わらないし、「車」を見たことがない人には「車」が伝わらない。つまり言葉は伝達はするがそれ自体はたんなる意味を運ぶ船でしかない。

船にのってつたわった情報は、相手の頭に中で意味づけされるのだが、その意味が相手の頭の中にあらかじめ入っていないと意味づけされないままの単語としてフワフワと漂うばかりだ。

言葉は、コミュニケーションの方法というよりは、ネットや本など「情報をより遠くに、より多くの人に運ぶ」ものであったり、記録することで「今より未来へ情報を運ぶ」ものであったりする方法論ではないかと思う。

ポジトロニックブレインにより、ニンゲンの何千倍もの容量をもつ電子脳を持つアンドロイドデータであるが、いくら言葉を知っていてもエモーションを備えていないために彼は一人の動く機械でしかなかった。

もちろん、多くの艦隊クルーが、データを愛していたし友人だと思っていたのだが、データ自身はエモーションが備わっていないから「肌で感じること」ができず、常に孤独を感じていたのだ。

人も含め、群れをつくる動物はエモーションで会話し、エモーションで他人を認識し、エモーションで心を癒す。

また、空の青や山の緑を美しく思うエモーションは、その環境が自分が生存するに適したものだという事実を理屈ぬきに感じているから生じるものだ。

エモーションとは、理屈ぬきに、真実を表現するもっともシンプルで意味づけを必要としない言葉なのだ。

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もへぇ~

♪ぱぱぱぱぱーこちゃん、ホントの名前を教えてよ
♪私の名前はあのねのね
♪残念だけど秘密なの

♪じゃ、すっごくヘンな名前だろうって?
♪うんまぁあ!失礼しちゃうわ

パーマン2号だっけ?の歌だ。
この「うんまぁ!失礼しちゃうわ」ってのが萌えなのである。

おもえば、パーマン2号もそうだが、魔法使いサリーや、リボンの騎士のサファイヤ、ハニーや、そゆのに子どもココロに「萌え」だったのはこの声優の声によるところが大きいとYAHOOのサウンドステーションアニソン特集を聞いて思ったのである。

テレビから流れてくるこれらアニメの声は、バラエティやニュースでの声ではなく、生活の声だ。うーん、なんていうかなぁ、つまり物語ではあるけど、その中に生活があるわけで、もちろん「うんまぁ、失礼しちゃうわ」なんてセリフは生活の中ではあんまり聞かれないかもしれないけど、それでも子どものワシには生活の声だったのだ。

で、ワシはこの「生活の声」に憧れた。おねちゃんがいたら、こんな声が家の中から聞こえてくるんだろうな?ママがいたらこんな声が家の中で響いているんだろうな?そんな憧れが、やがて「萌え」に変化していったのだろう。

ワシは十分自虐的だが、けっしてM属性ではない。が、わりかし女性の低い声、たとえば甲殻機動隊の草薙素子の声とか、ハニーが真剣に何かを喋ってるときのい声とかにゴーストが反応してしまうのだが、これなんかも「叱られる時の声」なのだと気がついている。

ワシに影で文句を言う奴はたくさんいても、面と向かって叱る奴など、ここ35年ぐらいお目にかかったことがないので、どこかそれを求めているのかもしれない。

今は、生活の声も叱られる声もないが、視線が飛び交う。音的には静かだが、けっこうこの視線はうるさい。犬が常時4匹、猫1匹、合計10の視線がワシを叱ったり、文句を言ったり、なにか要求したりで日々がサイレントな喧噪の中で過ぎてゆく。

ワシはこの10の視線を守る必要がある。永遠など約束されてはいないし宇宙規模の時間から見れば一瞬の刹那だ。が、わしはその一瞬のライブの中に身を置き、その一瞬こそが永遠なのだと知っている。

だから、犬の視線にもへぇ~
犬の体温にもへぇ~
縁側にあたる日の光にもへぇ~なのだ。、

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「ソウルバトル」なき世界

その若い兄ちゃんは、商店街の長老のようなじいさんに面会した。自分たちが企画したレイブなパーチーについて理解を求めるためだ。別に商店街の長老にあわなくても、勝手にそのぱーちーをやれないことはない。が彼は、会話を求めた。
会話なくして理解は得られないし、理解を得られることで自分たちの活動の可能性はさらに広がるにちがいないと考えていたからだ。

若者の街と呼ばれるその一角で、彼は若い奴とじいさん連中をなんとかつなげることができないかと模索していた。地べたに座りこむ、地面のつばを吐く、そんなどうしようもない奴だが、心底悪い奴など皆無だ。

またその若者の街に人が集まるのは、その街が誰でも受けいれる懐の深さを持っているからだと彼は知っていた。長老たちは、街の風紀を正そうと自分たちで見回りをする団をこしらえ、街の風紀を乱す若者を排除しようとしていたが、彼はそのことが街の死につながることを知っていた。

だから長老に挨拶にいった。慣れないネクタイを締め、つんつんした髪の毛は帽子で隠した。帽子からはみ出した染めている茶色い部分は、黒の毛染めでとりあえず隠した。これで今時の若い奴はという先入観が払拭されれればいいのだが…彼はそう考えたのだ。

しかし、面会は失敗に終わった。いきなり人前で帽子を脱がないことを指摘された。彼は、しどろもどろになったが、帽子をかぶってきた理由を話さなかった。

その面会の失敗の後、彼はひとり街の掃除を始めた。
この姿を見てもらうことで、少しでも理解が深まればと思うと彼は語った。

さて、「今どきの若い奴は…」なんてセリフはいつの時代にもある定番のセリフだ。今、じいさんやばあさんである人も若い頃にはこのセリフを吐かれたはずである。

たしかに、人前で帽子を脱がなかった彼は「失敗」した。そんなつまんないことで目的を達成出来なかったからだ。目的を達成するためなら帽子どころか、坊主になっていってもかまわない。しかし、たとえ彼が帽子を脱いでいっても、また違う要因で彼は失敗しただろう。

なぜなら、この長老。会話なんかをする気はさらさらないのだ。長老は自分が長老だということを若い奴に認めさせたいだけなのだ。だから、帽子であろうがなんであろうが、頭の先から爪の先までを見て、あげ足をとろうとする。

若い奴に「しつけ」や「社会の厳しさ」と称して、自分の権威を見せつけたいだけなのだ。

ワシは老害という言葉は好きではないが、しかしたしかにこういった「老害」がこの国には多い。

人は歳をとると二つのタイプに別れる。
孤独から逃げるために、権威や役職やそういったものにしがみつき、自ら裸の王様としての仮想の関係を築こうとする者。
孤独と向き合い、自らの心を解放することで人と繋がろうとする者。

もちろんワシが好きで話をしていて面白いのは後者のほうだ。

前者の「老害」。これはその個人を攻めることは簡単だ。しかし、その「老害」が発生する根本的なところは、解決できない。

※まず常に可能性を優先させる。帽子を脱ぐとか口の利き方を知らないとかは、その後でかまわない。ところが自分を認めさせるという「非常に個人的なもの」が「公の可能性」よりも優先されてしまう。
また、この長老の優先順位のつけかたに異を唱えることもなく、またおそらくは気がついてさえいないだろう若い彼は、この経験から「気にいられる若者」を演じていこうとするのだろうか?若者の街のちょっとした出来事ではあるし、どこにでも転がっている話なのだが、このことでワシは大きな不安を感じるのだった。

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西鶴に気をつけろ!

この前トイレが壊れたことはここに書いたが、その主な原因は配水管の老朽化というよりはトイレのタンクに前の住人が節水のためにビール瓶やらワインの瓶をてんこもり入れていた人的なものだった。

たしかに節水にはなるが、そのせいで水量が足りず、途中で止まった汚物が空き屋の間に乾燥し固まって蓋をしてしまっていたのだ。

最近、テレビや雑誌で節約の達人みたいなカリスマ主婦が出てきて、いろんな裏技を披露しているようだが、このトイレのタンクの節水技もそのひとつだ。

しかし、トイレメーカもなにも考えずにトイレのタンクを設計しているわけではなく、ちゃんと流れる水量を計算しているわけで、多少の誤差を計算には入れているだろうが、基本的にはデフォルトのままのほうが安心だ。

しかし、なぜそういった裏技みたいなものが流行っているのだろうか?

実は、トイレ掃除の業者とテレビや雑誌でトイレタンクの節水術をすすめているカリスマ主婦とは、グルだったのだ。

つまりカルスマ主婦が節約術をススメ、全国のトイレがつまり、業者は大もうけウハウハなのだ。

なるほど、そーいうわけか!…と思ったら、実はトイレメーカーと水道局はグルで、水量は多め多めに設定されていて、カリスマ主婦はそのトイレメーカーと水道局の陰謀を阻止するために立ち上がった正義の主婦だった。

が、その正義の主婦を返り討ちにすべく、トイレメーカーと水道局はトイレットペーパーを製造する紙屋とつるみ、流れにくい紙を開発、それとなく市場に導入し、正義の主婦とトイレ掃除の業者の陰謀だとうブラフを流した。

かくして正義の主婦は、トイレ掃除業者との陰謀を企てた悪の主婦にすり替えられてしまったというわけだ。

はて、ここまで来ると本当は誰が正義の味方で、誰が悪の結社なのかわからなくなる。

実は、これはすべてワシが今考えた「ものがたり」である。これをリアルに書いて週刊誌かテレビあたりで言ったら本気にする奴もでてくるだろう。その後、ワシがバイクでこけて、それが誰かにパンクさせられたなんて言うとますます陰謀説はリアルになる。で、ワシはそれをドキュメンタリにし、それが映画化されワシはウハウハになる。

さて、ウソで一番やっかいなウソは、時々本当のことを混ぜ込むことにある。
ウソと本当がかき混ぜられたら、それはもう検証は不可能だ。さらにそこに「陰謀」というウソ…「誰かが俺たちを騙している」…という要素を加えたら、もー敵なしの理屈が構築される。ウソがばれそうな要素はすべて誰かの陰謀だといってしまえばいいのである。

時々、そんなアホな!っていう理屈でエロい教祖が美人の信者をはべらかしていたりして世の中の男性を悔しがらせるが、その秘密はこの方法論にあるのだ。

オーム以来、「洗脳」という言い方が一般化したが、洗脳って言うとすげー専門的な感じがするが、これは誰でも簡単にできる方法だし、そんなに秘密の方法でもなくて、ワシみたいな広告屋は何年か真剣に仕事をしていると体感的に学んでいくぐらいの技ともいえないようなものなのだ。

また、世の中は意外かもしれないが「偶然に満ちあふれている」。

たとえば、ワシがおねちゃんのところに夜中に電話をかけて「急に流れ星がみたくなったら、つきあってくれ」なんて言って呼びだし、バイクで海の見える岬に行き、「流れ星なんてめったに見れないけど、実はちみと二人で星空を見ながらワインを傾けたかったんだよ。もちろん流れ星が見れたら最高に祝福されたようで嬉しいけどね」なんて言って乾杯のあとに夜空を見上げると、本当に流れ星は墜ちてくる。

これは超能力でも祝福されたものでもなくて、地球には常に流れ星が墜ちてきてて、それは普段、町のあかりでかき消されているのと、そんなに空なんか見ないからわかんないだけ。偶然は満ちあふれているのだが、そこに言葉を付け加えると必然のようになるだけの話だ。

人は偶然なんてありえないと思いこんでいるが、それは確率論としての数字に表れないだけで、世の中は実は偶然に満ちあふれているものなのだ。

たとえば、確率的にサイコロをふって6が連続6回でることはすげ少ないが、実際にやってみると確立の数字を簡単に超えて出る。なんで確率論としての数字にでないかというのも理由があるが、ま、長くなるんでまた今度。

世の中には、こういった言葉のマジックのような陰謀説や、あやしげな思想や、占いや元クラブのママや、ゲイの兄ちゃんが幅をきかせてブイブイと美人主婦のハートをわしづかみにしていて、ワシは悔しい限りだが、世の中は平和で、生きていくのにリアルを必要としなくなってしまったことにこれらの「まやかし」がはびこる土壌ができている。現実を直視するよりも、ものがたりの中で自己を確立させたような気になるほうが簡単だからだ。

これをワシは「集団ひきこもり」と呼んでいて、かなーり、やっかいな問題だと考えている。

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若者は馬鹿者であれ

Qujiet leaversって曲を聴く。朝の光の差し込む庭には、ナントカって鳥が最近
よくくる。その鳥がちょこちょこ動くのを見ながら聞くには、もってこいの、オルゴールのように音符をひとつづつ丁寧に紡いでいくような曲だ。

その曲を何回もリピートしながら、ワシはボーと庭をみながらコーシーを飲む。いつものコーヒー豆を買いにいく時間がないので、そのへんのスーパーで買ってきた豆だ。雑味があるが、こゆ朝にはその雑味が喉を通り過ぎる感覚が気持ちいい。

昨日は日中、編臭長通信をいろんな人に配りまくった。皆、「目」に力のある人ばかりだった。帰ってから顔を洗い自分の目を見た。うむ、どこにも意志の強さは見つけられない。

編臭長通信を配りまくることは、危険なのだということをワシは実はよく知っている。あの手の自分の考えがはいりまくりのものは少部数であっても配ると必ず活性化する。それは静かな湖面に石を投げ込む波紋のようだ。波紋というと綺麗な感じだが、その水面に平和に浮かぶ小さな虫には、突然の大きな津波と同じだ。

自らが、動き回る手足を持たぬワシは、いつも卑怯にも波紋を起こす、その波紋に乗って、しかたなく溺れないようにじたばたして移動するのがいつものワシのやり口だ。

ワシの意志は他人にゆだねる。ワシは常に受け身である。水面の小さな虫のようにそこに留まること、生きること、生活することで、押し流されるように動く。

しかし、最近はこの浮力が少し衰えてきているのを感じる。浮力は自信であり、自分のことを知る力だ。自信はエロから生じ、自分を知る力は反省から生じる。

おそらくワシは、歳をとり、エロ力よりも反省する力のバランスのほうが勝ってしまったのだ。多少、調子こくぐらいのほうが丁度いいのだろう。

多くの偉人は、自分のジンセーを振り返ると
穴があったら入りたいぐらいの恥ずかしさを感じる
しかし、その恥ずかしいほどの馬鹿な時期が
何かを創造し、変革するには必要な一瞬なのだ

by西鶴

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自分と地続きの世界

そー、前の日記「戦闘力」のコメントにも書いたが、戦闘力とは「語り、理解され、そして敵が味方になること」だ。

またこの戦闘力の定義は、同時に「広告制作」の定義でもあるし、「ソーシャルな活動(仕事も含め)」の定義でもある。さらには「コミュニケーション」の定義とも言えるものだ。

ところがぁ、一流と呼ばれているデザイン屋やクリエーターやアートディレクターでさえ、この定義を知り実践しているものは少ない。

かくして世の中にはウソや誤魔化しや、美辞麗句や変な平等意識や、「元三浦社長」なんていうよくわかんない表現がまかり通ることになる。

広告なんていうと、商品や会社の株をあげるためにたわいもない技法だと思われるが、広告のマス効果は確実に世の中をねじ曲げるプリズムの役割を担っている。

日本のどこにも、1日たりとも広告を目にすることのないニンゲンは存在しないのだ。

ウソや誤魔化しや、美辞麗句が氾濫する中で、「語り、理解され、そして敵が味方になること」を説いて回るのはそれこそ「カエルが地球に飛びつくようなもの」だ。まだ柳の木に飛びついたほうが可能性は高いだろう。

しかーし、語り、理解され、そして敵が味方になることをしないのなら、
こじんまりとした仲間内でチマチマと傷をなめあうジンセーをただ消耗するだけか、もしくは市場主義経済の中でウソの限り、誤魔化しの限りをつくし空虚なジンセーを送るかのどちらかしか選択肢はない。

いずれにしても、それらは仮想空間よりも、体感できるリアルさには欠けるたんなる「ものがたり」にしか過ぎない。

語り、理解されるようにつとめよ
そこでココロ傷ついても
それは明日への戦闘力の糧となる

傷が多ければ多いほど
あーたのジンセーは
他の誰のものでもない自分のモノになるのだ

カッコイイジンセーとはそーゆーものだ

by西鶴

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たとえば、君といるだけでココロが強くなれること…

YAHOOのミュージックステーションで、たまたま流れてきたこのフレーズ。

komekomeがうたっているときは気にならなかったのだが、SotteBosseっておねちゃんがこの曲をカバーして歌っていて、そのハスキーでアンニュイな歌声でこのフレーズが流れてきたんで、ワシのゴーストにひっかかった。

たとえば、君といるだけでココロが強くなれること…
たとえば、君といるだけでココロが強くなれること…

そーなのだ。このフレーズをワシ風に言い換えると…
「僕のことを理解し、また理解しようとする君がいるだけで、僕は自分であることに自信をもって、いついかなるときでも迷わずに歩いていける」となる。

僕のことを理解し、また理解しようとする君は、子どもの頃は「母親、父親」だろう。大人になってからは身近な こひびと とかになるのかな?

さらにワシ的に言い換える。

「あなたとは、時として意見の相違や方法論などの違いはあるが、確実なことはどんなときでも私はあなたの存在を否定はしないし、嫌いにはならない」

たとえば、ワシの犬はこれをよく解っている。ワシがどんなに怒ろうが、しばきたおそうが、ワシが見捨てることなどないと信じている。だから、だからワシは怒り、叱りとばすことができる。

これは犬に限らず、コミュニケーションのまず基本に置くべきことではねーかのと思うのだった。

たとえば、君といるだけでココロが強くなれること…
そー、担保されるべき関係があるとココロは強くなる。

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この世に「チャンス」なんてものは無い

あまりジンセーで迷い悩むことなど今までなかったのだが、今回はどーしたものか延々と考えた。1週間以上グズグズ考えた。加古川の広報誌のお仕事である。

受ければ、生活は完全に安定するし美人のおねーちゃんの秘書も雇える。ワシの仕事上の目標に「美人秘書を雇う」というのがある。いや、これがワシの仕事上の最高の目標でウサギとカメのお話でいうと、ひとまずのゴールだといってもいい。オームのジョーユー君がすげー美人秘書が運転するベンツに乗ってたが、あゆ感じ。

また、広報誌といえば発行部数でいうと9万5千部、いやおうなく各家庭の中にはいりこむ加古川最大のメディアだ。このメディアをうまく活用できれば、それこそ世の中をひっくり返せるんじゃねーか?ワシはその自信がある。すぐには無理だろうが1年2年とやっていくうちに行政側のスタッフもだんだん変わっていくだろうと思う。自分ではあまり気がついてない感じがあるが、ワシはかなーり他への影響力が強いそうだから、回りのほうから変わっていく可能性は大きい。

んが、毎月の発行なので肉体的時間的にかなりキツイ。準備期間があるなら、誰か人を探すなり教育するなりして、体制を整えることもできるが、この仕事が決まれば即動く必要がある。

ワシは考えた。あらゆるシュミレーションを頭の中で繰り返した。そして疲弊した。考えすぎて疲れて、ソファで寝てたらウォーフが心配して顔を舐めにきた。

そこで思った。広報を活用できれば社会を変えれるなんて、そんなものは実は自分が広報の仕事をやりたいからこじつけたカッコイイ言い訳なんだと。この仕事を受けることはあらゆることでワシがいっていることと矛盾しているのだ。

なによりそれはワシが一番知っているはずだった。

思想や夢、そんなものは生活という座布団の上に乗っかるものだ。ワシの場合、金がないが突っ張り続ける生活やワンコがゴロゴロしていて散歩や飯やで時間に追われ、その合間の仕事をするというバタバタした生活の上にQシステムやら新貨幣の考えが構築されていっているのだ。

広報の仕事はその対局だ。もちろん、仕事の上でのバタバタした生活からはまた違う思想が産まれる。しかし、その対局へのシフトは今の生活を変える必要があるのだ。

…ワンコはもう、いい年である。ワンコ年齢で1年はかなり長い。また1
年広報の仕事をしたら、次の年度も広報の仕事をしたいし、そうなる可能性はきわめて高い。これはもう「就職」するようなものだ。

結局、今回はやめておくことにした。せっかく声をかけてもらった広報の若き変革者の方には非常に申し訳ないことだと思う。

断った今もまだ、どこかでくすぶってはいるが、きっとウチのワンコが大往生を迎えるとき、このくすぶりは消えてなくなるだろう。

どんなチャンスも、ワシには無駄なものだ。ワシは死んだときに三途の川を渡らないと決めてしまったのだ。この世の果てで川を渡ることができずに困ったいるワシを川の向こう岸から、「どんこ」を先頭に犬の群れが泳いできてワシを迎えにくるのである。

ワシは、ウォーフの黒い鼻を指ではじいて、耳を引っ張った。ウォーフは安心してソファで丸くなった。

「この世にチャンスなんてものは無い!
 あるのは、捨て去る覚悟と
 自分の中で決着すべき優先順位だけだ」
by西鶴

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オープンマインドばあちゃん

きょはデカイほうのバイクで出かけていた。路上にバイクを停めていたら、見知らぬばあちゃんに話かけられた。

「大きなバイクよね。冬は寒いでしょ」
「うんうん、今年はとくに寒い。夏は夏で暑いし、春と秋だけやね、気持ちいいのは」
「じゃ、これからいい季節になるわね」

これだけの会話で、ワシは気持ちよくなった。ためしに右目を閉じてみる。たちまち世界はその構成要素に分解され意味不明のコーザル・ソースになる。ソースはやがてワシの脳が理解できるビジュアルに変換されはじめる。

左目で見るこのばあちゃんは、桜吹雪のピンクの中無邪気に花びらと舞う少女の姿だ。

このばあちゃんは、いつもこういった感じで人に話かけているのだろう。その笑顔は、長年人に接してきた笑顔だ。昨日今日で作れる笑顔ではないような気がした。

オープンマインド。開けゴマだ。多くの人は、このばあちゃんになにかしら返事をするだろう。一言、二言の会話で多くの人が少しだけいい気持ちになるのだろう。

また、このばあちゃんのメソッドは、彼女独自の健康法で美容法なのにちがいない。笑顔の奥には健康そうな精神と、そしてどこか色っぽい艶やかさが見えた。

「じゃ、お気をつけて…」乳母車を押しながら去っていくばあちゃんの後ろ姿にワシはココロの中で声をかけた。

「じゃ、きょは少し暖かいからオレのバイクで春の香りでも見にいかない?そして帰りには、すげーうまい珈琲を出す店で、あーたの人生を聞かせてくんない?」

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ゼロの喜び

保護犬は独特の社会性を持つ。たとえばヤクザ犬は賢く人に気に入られることで生き延びてきた。かたやケイちゃんは隠れ逃げることで生き延びてきた。これらは方法論は違うが奴らなりの人社会との接し方だ。

この事務所にかわってから、けいちゃんはずいぶん人との距離が短くなった。
ワシはその距離の短さを嬉しく思う。

ワシが犬と暮らしてきて思うことは、「なになにができない」ということではなく、「なになにができるようになった」という発見と喜びだ。

「ちゃんと散歩ができるようになった」
「ごはんを食べるときに唸らないようになった」
「さわっても怒らなくなった」

そんな積み重ねが、犬と暮らすということだ。

ところが、世の中には「なになにができない」「あれもできない、これもできない」と嘆きながら犬と暮らしている奴も多い。

パソコンの使い方解らなくてメーカーにクレームを入れる奴もいる世の中だから、そういう人もいるのだろう。これこそ、「消費主体としてのオレ様」という裸の王様。怪物が一掃されない原因なのだとワシは考え初めている。

昨日たまたまつけたテレビで、どかのインスタントラーメンの開発者がなにやらかたっていた。通常の1.5倍のカップラーメンを開発して大ヒットを飛ばしたそうだが、社内プレゼンでもマーケティング調査でも、その評判はさんざんだったそうだ。が、むりやりこじつけて商品をつくり結果の大ヒットだそうだ。

客の顔色を見ていてはこのヒットはなかった。つまりこの商品は「消費主体としてのオレ様」を無視したわけだ。

経済は格差を産んだだけではなく、世の中のパワーバランスを破壊した。バカや弱者は強者であり王様になってしまった。あらゆることを自分が受けるサービスだと思い、それが受けられないことに腹を立てる。

ショップで犬を買い、「なにができない、これができない」と犬を捨てる奴、
まるでステレオタイプなテレビにでてきそうな金持ちのわがままみたいである。

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恨み

その犬は、子犬の頃に保護されてから、ずっとケージの中で暮らしていた。ケージの中で何年もエサだけ与えられ暮らしていた。
身動きすることすらできない狭いケージが彼の世界のすべてだった。

夢を見るのは、子どもの頃、まだ野良犬で母犬の後をついて走り回ってきた頃の光景や匂いだ。そのわずかな記憶から見る夢だけが彼の冒険のすべてだった。

それでも彼はニンゲンを恨んではいなかった。エサが運ばれてきたら身動きできないケージの中で、必死に尻尾を振った。フンまみれで汚いと言われても、相手にしてくれることが嬉しくて尻尾を振り続けた。

まるでなにかの罰を受けているように彼は扱われていた。囚人のほうがマシである。彼の罪状は、野良犬だったというだけのことだ。

母犬からはニンゲンは危険だと教わっていた。だが、少し興味があった。なにかくれるというのでつい、寄っていった。それ以来、身動きできないケージの中での生活がはじまった。

何年もたって体は大きくなった。しかし、外の世界のことは何も知らない。子犬の頃の夢を何度も何度も何度も、繰り返し繰り返し見ることだけが彼の見る夢だった。

ワシは、ちゃんと歩くことすらできないこの犬に話しかける。

「おまえはニンゲンを数人かみ殺してもいいよ。それでも許してやる」

しかし犬は尻尾をふった。

犬は恨むという感情を持たない。ワシは、そんな犬を見て、ニンゲンを恨む。

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ヒステリック・エコバカ・バンド

♪これからの時代はエコだぜ!エコぉおおおおおお!

♪地球のために身を粉にして
♪震える夜も暖房なしで
♪地球に優しく、財布にきびしい
♪エコ商品は俺たちの命

♪エコエコエコエコエゴ
♪エコエコアザラクパイポパイポパイポノシューリンガン…

ひつこいようだが、どー考えてもバカである。
エコバカの共通点は、自分の行為が正義だと信じていて、それをみじんにも疑わない。また、それを調べようともしないことだ。

きっと「エコ検定」なんか実施したら、エコ度が自分のエライ度だと勘違いしてる奴が大挙として押し寄せるだろう。

問題を出すのは、エコをビジネスにしている企業たちだ。もち、スポンサーは関西電力。補助は、兵庫県。主催はどかのNPOだろう。

1997年からどんどん加速しているエコ。もちろん、ビジネスにエコを取り込むのはかまわないが、問題はエコを標榜していないものへのヒステリックな排斥的な風潮だ。ロハスなんてものも、そういったライフスタイルであるのはかまわないが、どこかコミューン的な閉鎖性を感じる。

ワシは環境問題と同じくらい何か大きな問題がこのヒステリックなものをつくりあげているにではないかと不安に思うのだっ